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映画「三池---終わらない炭鉱の物語」を観る [映画・演劇の感想]

映画「三池---終わらない炭鉱の物語」 熊谷博子監督

 魅力的な映像を多く含んだ映画である
チラシから

 もともと小さな館での上映だったが、この種の映画にしては珍しく観客が「予想外に」多かったのでアンコール上映となった。私が観たときも、平日の昼間であるにもかかわらず満員であった。60歳前後の年配の観客が多かったように思う。自分たちの生きた時代と自分を懐かみ慈しむという風だったように感じた。ただ、若い世代も数名いた。彼らはどのように観たのであろうか?

 最初のほうの三池の歴史を説明する画面は、まるで教育映画であるかのように映像に命と動きが欠けている。これを入れなければならないと判断した監督の意図は何か? と疑問に思いながら観終えたところ、最後の字幕に、企画:大牟田市とあって、スポンサーの要望をたくみに取り入れ不満の出ないように処理したことからくると、理解した。「巧み」に要望を満足させたかもしれないが、しかしやはり映画をそのような構成としたのは、良くない。
 こういう映画をつくるには財政的な苦労が大きいのだろうとは思う。スポンサーの要求にも応え、三池鉱山の歴史も描き、三池鉱山創業者・団琢磨も登場させなどしているところは、監督としてはそれぞれの要望を「うまくまとめ上げた」と言えるし、作者は何を描き出したかったのか焦点が定まっていないとも言えよう。

 企画が大牟田市、大牟田市石炭産業科学館だそうで、三池炭鉱の歴史、大牟田市の歴史を描く内容も混じっている。三池争議も描き、炭鉱の歴史も描き、それから熊谷監督自身の「思い入れ?」のようなものも含まれていて、それらがすべて「混じっている」。

 そうではあるが、三池炭鉱争議の当事者であった三井鉱山の労務担当者、新労の役員・労働者、三池炭鉱労働組合がそれぞれの立場から三池争議の歴史を「語りついで」、当時の写真や映像が織り込まれるところなどは、俄然映像が生きて動いているかのように活気を得て、それぞれの写真、証言がつながり、迫ってくる。間違いなくこれが映画の生命である。
証言を並べて三池争議やCO中毒患者と家族の苦闘をドラマティックに描き出している点は、優れたところだ。
 証言者の一人である松尾蕙虹さんなどは、わずか映画にある表情を観て話を聞いただけで、魅力的な人たちであることがわかる。こういう人たちのようにありたいと思ってしまう。

 大牟田の青年たちが法被を着て鼻筋を白く塗って輪になって踊る映像が最後近くにある。若い二人の女性が、「踊りで大牟田を明るくするのだ」と語っている。しかし、力がない。存在感がない。法被を着て国籍不明な踊りで明るくなると思っているところが残念だ。人が何を楽しみ苦しむのか、この若者は理解していない。証言者たちに比べて各段に影が薄い。
 チラシには熊谷博子監督は「・・・これは過去を描いた作品ではありません。・・・未来へ向けて勇気ある一歩を踏み出す、大きな力がみなぎります。」と書いている。必ずしもそのことを頭から否定はしないが、残念なことに大きな力はみなぎっていないし、勇気ある一歩は必ずしも明確ではなくて、各人各様に受け取るように作られている。未来へ向け大きな力がみなぎるようには残念ながらつくられていない。

 廃坑の前にたたずみ監督・熊谷博子が本人は深く感動しているらしく感慨を述べる。本人が何かしら感傷に浸りたがっていることはわかるが、何を思い伝えたいのか中身が乏しい。受け取れないわけではないが、それまでの映像に比べてずいぶん水で薄められているものしか、表現されていない。「映像は一瞬にして何百ページの論文より多くのことを語る。」と言われるが、このシーンはその逆だ。監督が目立ってどうしようというのか。たくさん喋っても中身を薄め、冗長にしている。こういうところは当然のことカットしなければならない。

 いろんなものが混じっているけれども、三池に生きた人たちの群像をよくとらえた、いいところをたくさんもつ映画だ。(文責:児玉繁信) 
チラシから


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コメント 8

港健二郎

はじめまして☆
レイバーネットから来ました。

私は、この映画の舞台になった大牟田の生まれで、
三井三池争議をモチーフにした劇映画「ひだるか」
の脚本と監督を担当した港と申します。1947年生。
(「ひだるか」は、今、全国で上映中。)


そんな私から見た記録映画「三池」は、残念な作品
でした。貴兄がいみじくも指摘されるように「混ざって
いる」と感じました。

映画「ひだるか」の東京での上映は、次の通りです。
ミニシアター『シネマアートン下北沢』にて、
10月21日(土)~27日(金)
20:30~(レイトシヨー)
10月28日(土)~11月3日(金)
13:30~(一日一回)

ぜひ、ご覧頂いて厳しい批評を賜りたいと存知ます☆

作品の概要は、映画の公式HPにて。
minato@hidaruka.com
by 港健二郎 (2006-08-31 19:06) 

kumahide

コメントありがとうございました。
少し厳しすぎる評だと知り合いから言われました。いい場面を多くもつことはそのまま認めています。
映画「ひるだか」もぜひ観させていただきたいと思います。
by kumahide (2006-09-01 00:46) 

港健二郎

寛容に受け止めて頂いてありがとうございます☆

実は、私に限らず、あの「三池」で傷つき、血を流し、
長く拘り続けてきた私をも含む仲間たちは、ある意味、
「静かな」怒りを持っています。

「三池」をあんなものだと思われたら困るというのが、
正直な感想なのです。
三池を語る時に欠かせない、三井独占の犯罪性が
完全に隠蔽された作りになっているからです。

一つだけ例を上げましょう。
CO患者の怒りと大変さが描かれています。
しかし、ああした事故が、何故、起こったのか?
天災ではないのです。

三井が、何故、刑事訴追されなかったのか?
そうした話題が、法曹界で公然と語られる「企業
犯罪」だったのです。
そこが、ネグられているので、「不幸にも負けず
頑張る女性たち」の物語に矮小化されています。

三池労組の闘いの根幹に触れると思われる発言
として「向坂教授のモルモット」を平気で採用する
「作家的思想性」の限界と思えば、納得できるの
ではありますが・・・

ですから、貴兄の評価は、少しも「厳し過ぎる」とは
思いませんでした。

それと、「市役所がスポンサーであるから」は通用し
ないと思います。
あれは、そういうかたちで大牟田の石炭産業資料館
で上映しているものを、再編集して、監督名をつけて
公表したのですから、「作家の仕事」として評価すべき
ものだと思います。

余計なことだと思いましたが、一言。
by 港健二郎 (2006-09-01 01:31) 

港健二郎

tamashigeさま

操作ミスで、二つ掲載されています。

他意はありませんので、一つ、削除して
下さい。
by 港健二郎 (2006-09-02 20:05) 

tamashige

コメントありがとうございました。
あなたの指摘が正しいと思います。

「闘った人たちと向坂教授」を揶揄した場面を、指摘されて思い出しました。

また、CO患者は、あなたが指摘されている通り、天災ではありません。確かに「企業犯罪」でした。その責任は明確に描かれていません。
そして「不幸にも負けず頑張る女性たち」の物語に矮小化されているのもその通りです。

「寛容に受け止めて頂いてありがとうございます」と書いていただきましたが、そこは私の眼がフシアナであったことを、丁寧に指摘いただいたものと、ありがたく受け取っております。

私たちの仲間の間で、指摘されたことも含めて議論してみます。

よろしくお願いします。
by tamashige (2006-09-04 18:32) 

労働関係編集者

三井独占に迫りきれていないとは思えません。

あの映画は二つ特徴があります。

一つは、ドキュメンタリであるということ。劇映画ではありませんし、再現映像をいれてつないでいくという方法もとっていません。いわば事実をして語らせるだけでいい。

もう一つは、目線の低さです。三池探鉱史を扱うのなら、経済史家(三井研究は日本経済史では盛んです)が出てくるでしょうし、争議史であれば、労働運動史家(これについては分厚い研究の歴史があります。とりあえず大原社会問題研究所あたりでしらべてみてください)や、炭労、総評、経営側、中労委、旧労働省といったところの人にしゃべらせるのがよくあるパターンです。それを断念している。当たり前で限られた時間と金のことを考えればそうならざるをえませんし、また結果的にそのことが視野を絞り込んで総花的でないものにしています。丸の内や霞ヶ関ではなく、三井三池という現場にいた人間によって物語りは紡がれるのですから。

事実をして語らせるということでは、会社側に、分裂工作を、口をにごしにごしであるにせよ、認めさせていますね。効果としてはこれで十分でしょう。

そして、食堂での二組への説得工作。生活というものに絡め取られていく悲しさが出ていたと思いませんか?

もし正面から三井独占を弾劾するというパターンでやっていたら、ドキュメンタリとしては成立しなかったと思うのです。ひだるかのようなフィクションとして撮るなら別ですし、港監督はその道を選ばれたのだと思いますが。

向坂教授に対するモルモットにされているという炭婦協2代目会長の違和感はわかります。学問が、現実に対してどこまで責任を負いきれるのかということでしょう。

左右は違いますが、最近の規制緩和を考えてみてください。学問は責任を、少なくとも、予測の失敗を直接は償えないのです。改革利権の連中と違い、善意だからこそよけいみじめなものです。もし彼女を批判するとすれば、被害者意識が過ぎるという程度でしょう。

教授のマルクス主義経済学が、革命の可能性を余りにも過大に見積もったものであること、資本主義はマルクス当時からは変化していたことはいうを待ちません。


by 労働関係編集者 (2009-06-17 02:39) 

NO NAME

あとひとつふたつ。
争議だけを取り上げるのであれば、これまでも多くの映画がつくられていますが、三池全体を捉えたものはなかなかないということ。これは上映会で熊谷博子監督ご自身が仰っています。

労働組合について。
三池労組、新労、炭労、総評だけで語っておられるかたが多いようですが、三井鉱山の他山の労組も含めた連合組織である「三鉱連」についてはこの映画も語っていません。三鉱連が三池労組への連帯ストを打たなかったことへの着目はないのです。

また職員労組の動向についても述べられません。第二次争議では職員が経営側についています。港監督の三池労組寄りの立場も、ここからすると、ひとつの贖罪意識なのかな、と思います。港氏は職員の子弟です。


by NO NAME (2009-07-01 15:32) 

tamashige

 映画において、「あれが足らない、これが足らない」と指摘するのは、「容易」にできます。しかし、その指摘は実際に実行しようとすればわかるだろうと思いますが、総花的になり、そして映画として成立しなくなります。
 それは、仮に善意からの指摘だとしても、正当な指摘、正当な批判ではないと思います。
 三池の争議と生きた人々のもっとも本質的な姿を描き出せばいいと思います。「あれも、これも」というのは、映画作成にはむしろ不要です。
 
 それから、港監督が職員の子弟であろうがなかろうが、映画の評価にはなんら関係ありません。彼は彼の責任で、映画を提示しているのです。映画がよいかどうかのみが論ずるべき問題です。
by tamashige (2009-07-04 16:16) 

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