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映画『花はんめ』 金聖雄監督 [映画・演劇の感想]

映画『花はんめ』 金聖雄監督 2004年作品

1) 一月ほどまえに下高井戸シネマで観た。
 これはドキュメンタリー映画だろうか。監督は特に脚本をあらかじめ準備していないように見える、実際は違うかもしれない。在日一世のおばあさんたちである「はんめ」を追い、そして引き込まれ魅入られている。観客も魅入られる。たぶん監督は自問したのではないだろうか。引き込まれるものは何か、と。この問い直し、見つめ直しによって映画はできあがってきたように見える。
 「はんめ」たちの暮らし、しぐさ、仲間うちで発する言葉、持つに至った考え、何も飾ったところはない。獣が身体を寄せあい温めあっているかのような、密接な互いのつながりを大切にして生きる姿、これまでの暮らしてきた関係そのものでもあったろう。
 この映画の特徴の一つでもあるのだが、「はんめ」たちを見つめる眼が(映画だからカメラが)、一貫してやさしいのだ。監督は「はんめ」たちを尊重し、あるがまま受け入れようとしている。あるいは自分たちにとって大切なものを扱うかのような態度をとっている。映画は特に主張しないし、何かを押しつけもしないが、やさしい視線は充分に観客に伝わる。

 2)はじめのほうのシーンで、「はんめ」たちの住む川崎の街が映し出される。古い木造アパート、ブロック塀、狭い路地、手押し車を押してゆっくり歩く一人の「はんめ」。歩みを止め中空に視線をあげる。路地脇の樹木らしきものを見上げている。背景に自転車に乗り近づいてくる少女が映し出される。何か配達しているのだろうか、車が近づいて左折し姿を消す。何ということのない日常の風景、ゆったりとした時間が流れる。「はんめ」はこの路地にぴったりはまり込んでいる。住みついた川崎の一角、彼女たちの今の「ふるさと」、生活の場所なのだ。中空を見つめていると思われた「はんめ」は、そうではなく後からくる仲間を待っていたらしい。後ろから一人、そしてもう一人「はんめ」が続いて画面に現れてくる。ゆっくりと。
 何ということのない街風景だけれど、このシーンは映画のなかで「美しいもの」の一つだと思う。監督が「美しい、あるいは味わいふかい」光景と感じ取りフィルムにとどめたはずだ。

 映画は自然にというか必然的に、「はんめ」の一人、「清水の姉さん」を中心に映し出すように変わっていく。この人のアパートにいつも「はんめ」たちが集まり話をし、食べる。「清水の姉さん」は、人が来ると食べ物をすすめる。腹を空かしたつらさと、人から食べ物をすすめられる嬉しさを知ってきた人なのだろう。あいさつのように食べろよとすすめる。
 このような人間的関係にかつての在日一世たちのつながりの痕跡を観客は発見する。この人たちは戦中戦後こんなつながりを互いに大切にして生きてきたんだろうなあと思わせる。それも美しいものだと思う。
 「清水の姉さん」は決して、人がよくておとなしいというばかりではない。国会中継であったと思うが、つけっぱなしのテレビ番組をチラッと見上げた後、「政治家ってのはみんな泥棒だからナ」と吐き棄てるようにつぶやく。監督はこの言葉と表情を逃さなかった。いたぶられ通しの生活のなかで身につけた山猫の心だ。
 
 トラジの会といって、毎週水曜日におばあさんたちが集まってくる。話をし、歌い踊り、そして食べる。トラジの会では自分自身を取り戻したかのようにはしゃぐ。みなこの集まりを楽しみにしている。一人暮らしの人もいる、たぶん家では話す相手もいない。人生の大半を日本で暮らしながらも、日本人相手のデイケアセンターでは孤立感を感じてしまうのだそうだ。日本語の読み書きが不自由な人もいる。朝鮮人として現在もなお日本に暮らすことを強いられ、今も孤立した老後の生活と闘っている。

 この映画は何を描き出したかったのだろう、と問うてみる。監督の視線はやさしい。実にやさしい。それが心地よい。登場人物に対する尊敬・尊重がある。「はんめ」たちが、戦中戦後の苦難の生活を経てきたことに対する尊重がある。カメラのやさしさはこれからくる。いい映画だと思う。監督は金聖雄という在日の人だそうで、在日であるからこそこのような「発見」をしたのだと思うし、そして貴重な視点だと思う。

 3)しかし、このあまりのやさしさは何からくるのだろうか。そのことを踏み込んで考えてみる。日本人だけではなく在日の若い世代にとっても、一世の歩んだ道、生活、歴史がナマのものではなくなっている、何か記録や語り伝えられたもの、自身がそこから生まれながらも、自分自身のこととして考えるのが希薄になっている、果たして自分自身はどこに成立するのだろうかという自問が感じられ、自己主張するスタイルから遠い若い世代の特徴と関係しているように思われるのだ。在日の一世とは全くタイプの違う人たち。この人も自分たちの「アイデンティティ」を捜しているのかなあ、などと思うのだ。
 映画の持つ「やさしさ」は、暖かい人間的な心情と共に、若い世代もつ遠慮がちに歴史と現実の社会関係を見る態度とも関係するのではなかろうか。自分自身やその利益を主張することに遠慮がちであることの裏返しではないのか。映画のナレーターは監督自身だそうで、その穏やかな声色さえ遠慮がちに聞こえる。
 この映画はあまり主張しない。主張するスタイルからはほど遠い。(とはいっても決して自身の主張を前面に出せと、要求するわけではない。)ただ、この人が主張するとしたらどのようにこれを行うのだろうか、と考える。「はんめ」の姿を借りて、自身の母親や祖母の世代の要求を通じて表現するのだろうか。

 このあたりに、わたしの小さな不満はくすぶっている。決して悪い映画だといっているのではない。いい映画だ。細やかな心情を描き出したいい映画だ。破綻していないし、この映画のような描き方はありうる。「はんめ」の姿を描き出すことに失敗はしていない。「はんめ」を尊重することもちろん大事だが、しかしその後ろに自分たちが隠れておればいいわけではない。「ひかえめ」というのは決していつも賞賛されるべき「態度」ではない。戦中戦後の苦難の生活を経てきた一世に対する尊敬と尊重の上にたって、それが次に問われると思うのだ。(文責:児玉 繁信)


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