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女子柔道暴力問題とAKBスキャンダル―――人権を考える [現代日本の世相]

 女子柔道暴力問題とAKBスキャンダル―――人権を考える

 人権感覚が欠如している全柔連
 柔道の女子日本代表の監督だった園田隆二氏が、全日本柔道連盟(全柔連)に進退伺いを提出し、代表監督を辞任した。
 昨年9月全柔連は、複数の女子選手から指導に当たって暴力を振るうとの告発を受けた。全柔連は、今年1月に問題の存在を認め、園田氏を「戒告」の処分としたが、同氏を女子代表の監督として続投させた。昨年9月の女子選手の告発から5か月経過した今年1月時点でもなお、「暴力問題は大きな問題ではない」と判断し、監督への「戒告」で幕引きを図り、園田氏を女子監督として留任させた。「体罰、暴力問題は、たいした問題ではない。よくあることだ」と全柔連が判断したことが明確にわかる。

 このような全柔連では、ラチがあかないと判断した選手たちがJOCに告発した。ここでやっと取りあげられて、園田隆二氏の代表監督辞任、上村春樹全柔連会長のJOC強化部長辞任へと進んだ(JOC委員は辞任していない)。
 女子選手たちは、実際に全柔連に申し出てもラチがあかなかったので、JOCへの告発行動をとったのである。女子選手たちの行動は、正当かつ当然の行為である。ラチがあかない理事や全柔連は、自身で解決できる体質ではないことを証明したので、相手にしても仕方がない、より上級機関に訴えるしかないのである。

 したがって、全柔連理事の全員が解任されなければならないほどの問題である。全柔連は、暴力事件を見のがし、それ以上に容認した。全柔連の伝統的な体質を示した。現在の全柔連の対応は、批判の「嵐」を何とか首をすくめてやり過ごし、園田監督の辞任、個人的な問題として終わらせたいように見える。

 問題はどこにあるか?
 「事実の有無にかかわらず、複数の女子選手から告発があった時点で、全柔連は組織として、事実として何があったのか、それがどの程度問題なのかについて、十分な調査と検討をすることが必要だった。」と指摘されている。

 確かにその通りである。しかしそれは問題を大きくしないために、ビジネスで言う「危機管理」のためにではない。
 問題解決の前提とされなくてはならないのは、暴力は人権侵害であり、犯罪であることだ。暴言も人格の否定である。女子柔道選手の人権が確保されているか、人格が認められているかである。ここのところを忘れて、問題が小さいうちに摘みとっておくべきであった、あるいは全柔連の権威が守られないとか、オリンピック招致に障害となるなどと心配するのは、問題をはき違えることになる。

 報道によると、監督やコーチらは、素手や棒、竹刀などで女子選手に暴行を加えただけでなく、「死ね」とか「お前なんか、柔道をやってなかったら、ただの豚だ」といった暴言を浴びせることがあったという。
 確かにTVで、園田監督が女子選手を足蹴にしている映像を見た。
 それ以上に、印象的だったのは、松本選手だったと思うがロンドンオリンピックで金メダル獲得の直後、園田監督が松本選手の頭を撫でた映像である。監督と選手の関係を示している、まるで大人と子供である、対等ではない、指導する者とされる者、指示する者と従う者の関係である。一人の人格として扱われていない、私なら頭を撫でられるのは嫌だし拒否する。
 暴力・暴言で指導し、勝ったら頭をなでる! 人格も人権も無視する指導? とにかく強くなって勝てばいい。

 これがスポーツである柔道の「指導」なら、誰しも失望するのではないか?世界で受け入れられないのではないか。
 
 スポーツではなく、「調教」ではないか。犬の調教とどこが違うのだろうか。「犬の調教」とはっきり違うことを示さなければ、柔道はスポーツと言えないのではないか。
 これこそが問題であって、改めなければならない点である。
 重要なことは、全柔連は今までの指導法・体質を間違いであると認め、すっぱりとやめると宣言し、改める態勢・施策をとることができるか?である。

 山下泰裕氏に見る全柔連理事の姿勢
 全柔連の理事の一人であり、選手時代に素晴らしい実績を持つ山下泰裕氏はこう述べている。
 「昨年10月初めに聞いたときは信じられなかった。園田は選手として頑張り屋だったし、指導者としても情熱はある。でも暴力は絶対に許されない。『やめろ』『まずいぞ』と周りが言える雰囲気がなかったことに問題がある」

 しかし、山下氏は全柔連理事であって傍観者ではない、当事者である。「やめろ」「まずいぞ」と言うべき「周り」の一人である。こんな傍観者のように言って、責任逃れしてはいけない。昨年10月の初めに聞いた段階で、事実の確認もせず、対応策も採っていなかったことは、理事として責任放棄である。それこそ「信じられない」くらいの無責任さだ。理事である資格はない。
 今後確実に改めることができるのか、と問いたい。「改める」というなら、何をどうするのか、組織としての態勢を示さなくてはならない。そうでなければ、「信じられない」。
 それができないのなら、山下氏の選手としての実績には敬意を表するが、理事は辞めなければならない。

 全柔連の本心は?
 推測するに、山下氏およびすべての全柔連理事は、現在でも「暴力は絶対許されない」と本心では思っていないのではないか。記者会見するときは、「暴力は許されない」と言わなければならないが、内部では「とにかく強くなりさえすればいい、熱心であれば暴力も許される、選手の人格尊重よりも強くなることが重要だ」という価値観がまかり通ってきたし、今もまかり通っているというのが実情であろう。

 山下理事が、「『まずいぞ』『やめろ』と周りが言うべきだった」という後悔は、問題が小さいうちにつぶしておけ、外に漏れて騒がれたら大変だぞ!という「処世術」として言っているようにしか聞こえない。
 おそらく「暴力・体罰は犯罪である、選手の人権侵害である、人格否定である、したがってやめなければならない」と認識しているからではなかろう。

 これまでの価値観、体質が、容易にあらためられるとは、到底信じがたい。全柔連は、神妙な態度をとっているが、「嵐」が吹き荒れるのをやり過ごす態度ではないか。
 全柔連が「反省」していることは、「問題が小さい時点で握りつぶしておかなかった」という「後悔」に過ぎないのではないか。

 たまたま知名度の高い山下氏の発言を見つけたので取り上げたが、もちろん、この告発を知っていた他の理事や幹部職員にも、同様の問題と責任がある。全柔連は、今年1月に問題の存在を認め、園田氏を「戒告」の処分としたが、同氏を女子代表の監督として続投を決定したのである。この時点でもなお、暴力問題が大きな問題ではないかのように考え、振る舞った。したがって、「人権意識が欠如している、あるいは薄弱である」ことはすでに行動で証明されている。
 全柔連の体質、考え方、事情、態勢は、一朝一夕に改まるとはとても思えない。

 女子柔道監督の暴行事件は、今後もまだ関心を集めて解決まで時間のかかりそうな問題になった。それはいいことである。少なくとも時間をかけ、大きく問題にしなければ、改善しない、根の深い問題だからである。
 現時点の問題は、果たして全柔連という組織が自己解決力を持っているか、である。持っていることを示さなければならない。でなければ再出発できない。自己解決システムを備えたことを、公然と示さなくてはならない。
 もしそれができないなら、解散し再組織するしかない。全柔連理事にその意思がないのなら、あるいは資質において疑わしいのなら、海外から指導者を呼んででも、再組織しなくてはならない。

 世間の柔道に対する支持が失われると心配する人がいる。失われるのが当たり前である。ただ明確にしておかなくてはならないのは、全柔連とその全理事の信頼が失われたのであってm選手への信頼が失われたわけではない。
 従来の全柔連への信頼は失われて当然であり、失われても構わない。
 選手の人格が認められ、人権が守られるように変わることこそが重要であって、これまでの柔道に対する人々の信頼が失われることを恐れてはならない。暴力・暴言を決して許さない柔道と全柔連、人格や人権を認めた柔道と全柔連を、新しく作り直すことだ。それ以外に信頼を取り戻すことはない。

 体罰肯定論も根強く存在する日本スポーツ界、日本社会
 ところで、スポーツや学習の指導における「体罰」をどう考えるか。スポーツの指導だけでなく、職場でも、体罰に近い事例や暴言などは現実に存在するし、上司によるそれについては「パワハラ」(パワーハラスメント)もある。体罰もパワハラも事実が認定された場合、法的には犯罪だ。(事実が認定されないように逃げる巧妙なやり方を追究する者さえいる。いじめ事件で校長や教育委員会が責任逃れするあの構図である。)

 問題は、これまでの日本のスポーツ指導では、体罰や暴言が「有効」であると信じられてきたし、実際にそのような指導を行ってきた。園田監督も暴力や暴言を受けながら柔道を学んできた、したがって、それ以外の柔道の指導の仕方を知らない。
 指導者と選手間には「上下関係」があって、一方的なコミュニケーション、指導者の指示が絶対的で選手は従順に従う関係しか存在しない。そのため「体罰やパワハラに近い指導の下で選手や社員が立派に育つ」と考えるスポーツ界、日本社会がそこに存在する。オリンピック日本代表の選手団のように、選手が「オリンピックう代表からら除外されたくない」と思うなら、指導者に逆らうことができない。

 日本では「強くなる、うまくなる」目的のためには、指導者に絶対的に従わなくてはならない。挨拶から態度まで、指導者に全人格的に従うことを表明しなければ、指導を受けられない実態が存在する。指導者は、人格にまで踏み込んで、指導に従順であることを求める。
 「全人格的に指導者に従うことを求める」のはきわめて日本的である。この関係の上に、暴力・体罰・暴言が横行する。暴力問題は決して容認できないが、これと表裏一体関係にある「全人格的に従うように求める」ことも同時に問題であり、改めなければならないと考える。
 
 元プロ野球投手の桑田真澄氏が言うとおり、「立場上、めったに反撃されない監督や上司や教師が体罰を手段として使うのは、何よりも「卑怯」だし、指導方法として有効でもない。
 しかし、このようでないスポーツの指導も存在する。桑田真澄氏の言うとおり、日本の指導者は精神論ばかりで、その一方で科学的なトレーニングの研究なども20年遅れている。さらに選手へ指示・命令するばかりで一方的なコミュニケーションしかない。欧米では、指導者と選手は対等な関係があって、選手個人の人格を認めたうえで、よく話し合って納得と説得の上に立って自主的に自発的に考え練習するようにするという。

 日本のスポーツの指導は、これまでのスタイルをあらため、変わらなくてはならない。

 AKB48 峯岸みなみの坊主頭
 一方、たまたま時期が同じなのでとりあげるが、AKB48の初期からのメンバーである峯岸みなみさんは、『週刊文春』(2月7日号)で、ダンサーでGENERATIONSのメンバーである白濱亜嵐さんの自宅に「お泊まり」したことの一部始終を報じられた。彼女はそれを受け、AKB48の「恋愛禁止」ルールを破ったことを反省するとして、ほぼ強制的に長かった髪を切って坊主頭にさせられ、動画サイトYouTubeでお詫びを述べる映像を流した。このような対応を取らせたのは、アイドル産業経営者の演出である。
 
 AKB48の「恋愛禁止」ルールが果たして、何の根拠があるのか? 仮に契約時にそのような項目があったとしても、有効なのか?

 明らかに無効である。
 確かに、病院や監獄では一部の基本的人権が制限されることはある。例えば、移動の自由や職業選択の自由などが制限されている。特別権力関係論である、しかし病院や監獄であっても、可能なかぎり人権を侵害しないように配慮し対処するのが最近の学説となっている。

 「恋愛禁止ルール」を本人が納得し契約したとしても、そのような契約は無効である。雇用者はこれを強要できない。さらに、契約違反?の罰則規定自体も無効であるし、それ以上に人権侵害である。だれしも坊主頭にさせることはできない。むしろ強要した者こそ、問題があり、犯罪が成立する可能性がある。

 ここにあるのは、女子柔道選手と同じように、AKBメンバー個々人の人格・人権の軽視、無視である。
 AKB48と 全柔連の違いは、アイドル雇用者の「危機管理」がしっかりしていて、早めに手を打ち、坊主頭に「自主的」にさせて謝罪させ、それを映像で流し「謝罪会見」をもAKBアイドル商売の一つにした。
 全柔連は、もたもたしたが、アイドル産業経営者はスマートに対応した。

 坊主頭での謝罪動画は強烈な印象を与えるものだった。「坊主頭で謝罪」は、あくまで峰岸みなみさん個人の自主的な行為と装っていたが、実際にはアイドル産業経営者が「坊主頭で謝罪」を強要したのであり、巧みに自身の責任を回避し、顔を隠したのである。それどころか「謝罪会見」を宣伝しアイドル商売で注目を集めた。

 そうやってAKB48というプロジェクト、商品の「質」を維持した。そこには人格も人権も無視されている。女子柔道の場合は、「強くなるためなら」と言って無視した。AKB48の場合は、「アイドルとして売るためなら」と言って無視した。よく似ていないか?

 人格無視、人権無視の日本社会の風潮は、女子柔道にも、アイドルにもあるということ。そして、もたもたしているのと、うまく立ち回り誤魔化しているのと二つあるということ。

 そのようにみると、契約社員も人格・人権を無視されて扱われているし、正社員だってそうかもしれない。現代日本には「ブラック企業」なるものが存在している。

 決して、女子柔道選手の問題だけではないとは思うが、しかしこの際女子柔道界だけでもまず、暴力・暴言、人格・人権無視の伝統的体質の撤廃を実現してもらいたい。


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noga

「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
当人は、やけっぱちになっている。

日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。
この世俗的な上下感が日本人の判断を狂わせている。

下とみられたものは、上からの暴力に抗することもむずかしい。
序列差法の一環と考えられていて、無防備状態である。
上の者の声は、天から聞こえてくると感じられるからである。

「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の頼りとなっている。
暴力は、「がんばって」の掛け声のようなものか。

序列に基づく精神力 (意気込み・気力) で、大東亜戦争に勝てるのか。
努力の空回りに気が付く時が来た。気力ではなく、知力 (intelligence) で負けた。
我々は、頭を鍛えなくてはならない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

by noga (2013-02-15 14:09) 

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