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1月24日 康宗憲さん ソウル高等法院無罪判決 [世界の動き]

1975年11・22学生スパイ事件、
1月24日、ソウル高等法院 無罪判決
在日韓国人政治犯死刑囚・康宗憲さん



 11・22事件とは、韓国政府が1975年11月22日に在日韓国人留学生を北のスパイとデッチあげた冤罪事件である。11・22事件以外にも、いくつかのデッチあげ事件がある。韓国社会の民主化進展によって、最近になってやっと再審がはじまった。康宗憲さんの再審が一番先に始まり、一連の事件で初めて、2013年1月24日ソウル高等法院で無罪判決を勝ち取った。

 2月15日に東京で1月24日無罪判決の報告会があり、康宗憲さんが報告した。「死刑囚にふさわしい生き方と死に方をしよう」と決意し獄中で激しく闘い、光州事件でつかまって入ってきた人たちにも影響を与えた康宗憲さんである。彼の話には、余計な装飾も過大な謙遜もない、起きたこと考えたことを穏やかに率直に語る。中身がきっちり詰まっているという感じだ。本当に立派な人であることがわかる。以下は、集会での康宗憲さんの報告概要。

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<集会で報告する康宗憲さん>
  
 私(康宗憲)は、1951年生まれ、ソウル大医学部に入学した。11・22事件で突然逮捕された。拷問による過酷で、かつ不法な取り調べにより、国家保安法、反共法違反のスパイ罪とされた。当時は在日出身の学生が狙われた。長い間、拷問に屈服した自身のふがいなさを悔やみ続けていた。1977年3月15日死刑確定し、82年無期に減刑された。その期間は特につらかった。いろいろ考え、最終的には死刑囚にふさわしい生き方と死に方をしようと決意するに至った。

 ただ当時私は、世間知らずの死刑囚だった。一般囚と接しても擦れ違いばかりで、いくら話しても聞いてくれないし通じない。やがて自分のことを訴えるよりも、一般囚の話を聞くことにした。そうやって初めて韓国人と韓国社会を知った。それまで何も知らなかった。スパイ罪とされたのに、スパイするような知識さえ持っていなかった。私は獄中で多くを学んだし、韓国社会を知った。

 1988年に釈放され、1989年4月日本に帰ってきた。金大中の自伝を翻訳した。大阪大学に51歳で入り、5年で修士博士課程を終えた。家族が私を支えてくれた。ただひたすら待つこと、黙々と耐えること、家族・友人を愛すること、そうやって過ごしてきた。

 韓国で真実和解のための過去…委員会が活動しているのを人づてに聞いた。まさか自分のこととは思わなかった。それまで再審申請しても無視されてきたので、今回の再審が受理されるとは思わなかったのである。真実和解委員会の決定を受けて、再審をすべきと決心した。

 民主化を進めてきた金大中政権も盧武鉉政権も新自由主義政策を採り、格差が広がった。そういう面もあるが、盧武鉉政権時代の判決と、真実和解委員会の決定が、私の無罪判決の根拠となった。
 弁護士はシン・ジェファンさんに頼んだ。ソウル拘置所で会った人物である。彼は光州事件でつかまって入ってきた。

 2010年10月1日再審請求を提出、2011年10月再審受理。過去の判決に誤りがあることを認めたから再審は受理された。そして2012年3月1日再審がはじまった。

 ただ再審は容易ではなかった。拘置所で親しかったと自称するキム・ヨンジャ氏が登場してきて、ネット で「康宗憲は北のスパイに間違いない、拘置所で会った時にスパイであると告白するのを聞いた」と証言し、右翼がキャンペーンを行った。新聞・メディアがこぞって報道した。韓国にも右翼はいて、組織的にキャンペーンを行ってきたのであり、私の再審請求裁判がその標的の一つになった。

 私(康宗憲さん)は、統合進歩党の比例区18番目の候補として立候補していた。当初は当選の見込みのない下位候補だったが、候補選出時の不正が露呈し何人かが辞退することになり、当選の可能性が生まれてきた。そのため反共宣伝の標的にされた。大手メディアは何の確認もなしにキム・ヨンジャ氏の「証言」を報道した。キム・ヨンジャ氏は、世論攻勢をかけ、自分が康宗憲の再審で証言すると名乗り出て、何とこれを裁判所が受けたのである。

 キム・ヨンジャ氏は公判で、康宗憲と刑務所で親しく接したから、「拘置所で会った時にスパイであると告白するのを聞いた」のは信憑性があると言うのである。二人だけで話したことを証言するのだから、何の証拠もなく証明しようがない。キム氏は私との親しさを示すために、「私が読んだらどうか」と手渡したある本を証拠として提出してきた。その経緯を私はすでに忘れてしまっていたが、家に帰りぼんやり書棚を眺めていたら、なんとその本を見つけたのである。キム氏が提出した証拠本は贋物と判明した。証言も信頼性がないと判断された。

 最終弁論が2012年11月22日、判事が検事に求刑しなさいと言った時に、検事がうろたえて、何と「法の任すように」と言った、すなわち死刑を求刑しなかった。これまで私は、死刑の求刑以外、聞いたことはなかった。あの驚きは忘れられない。決して変化しないと思っていた硬い厚いものが、崩れつつあると初めて思えた。

 判決は2013年1月24日。裁判長は、「逮捕令状もなく拘束、拷問による調書は任意性がない、だから証拠として認めない。被告の証言に疑いがあるかどうかは、被告自身ではなく、検察が証明しなければならない。」と明確に言い放った。そうしてソウル高等法院は無罪判決を下した。その時、裁判長から私へのねぎらいの言葉は一切なかった。しかし、裁判官は判決で自身の人格を語るという。その通りである。

 検察は1月31日付で、上告した。したがって私は現在上告中の身であり、無罪は確定してはいない。しかし、高等法院で無罪を勝ち取った今、情況は大きく変わった。最高裁でも無罪を必ず勝ち取る。私以外の多くの仲間たちの再審も始まるだろう。最高裁で無罪を勝ち取って初めて、1970年代から続くこの長い闘いが終わる。

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