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小野田帰還、日本政府は何を恐れたか! [フィリピン元「慰安婦」]

「42年目の真実」が暴き出した真実

残留日本兵 小野田寛郎 ―7月26日 NHK放送―

 7月26日NHKは「42年目の真実」と題して、敗戦後29年間、フィリピン・ルパング島に潜伏し続けた小野田寛郎元少尉が発見され帰国した際の、日本政府とフィリピン政府間の外交交渉文書が情報公開され、当時の極秘の交渉内容が明らかになったと、放送した。

ルパンぐ島に30年潜伏.jpg
<1974年フィリピン・ルパング島で、投降する小野田元少尉>

 この放送を見て、まずあきれた、「被害事実と法的責任は認めない、決して賠償しない、見舞金を支払って済ませる」、「被害者は相手にしないで、政府とだけ交渉する」という小野田帰還に際し日本政府がとった態度に対して。

 これは、日本政府外務省の戦後一貫した態度であり、慰安婦問題での2015年末の「日韓合意」の内容とまったくそっくりなのである。
 そしてNHKが、日本政府のこの立場・主張を、無批判にただ報道したことに、再びあきれた。
 放送は下記の内容を紹介していた。

1)埋もれていた極秘の外交文書

 日本とフィリピンの戦後史を研究している広島市立大学の永井均教授が、残留日本兵小野田元少尉の帰国に関する日本政府の極秘文書670枚を情報公開請求で初めて入手したという。元少尉の帰国を巡り、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていた。

 公開された文書には、
「小野田氏ら元日本兵により30人が殺され、100人が傷つけられた」
「何らかの手を打たなければ、フィリピン側の世論も納得しない」

 と記されており、「戦争の終結を知らない」残留日本兵らが、地元の住民に深刻な被害を与えていたことが公文書で初めて確認された、という。

 小野田寛郎ら残留日本兵は、敗戦後、29年間継続した戦闘行為によって、30人以上を殺したが、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半だった。そればかりか、住民の畑から作物を盗み、大切な財産である農耕牛(小野田の主張では野生牛)を捕獲し食料にしている。戦争終結後の行為は、フィリピン法に照らして犯罪である。否定しているものの、小野田は敗戦・戦争の終結を知っていたと推測される。(小野田が戦争終結を知らなかったと強弁したのは、敗戦後の30人以上の住民殺害、100人もの傷害が、強盗、殺人、傷害であると自覚したうえで実行したことになるからである。)

2)賠償ではなく「見舞い金」3億円

 交渉の中で、フィリピン政府による被害への補償有無の打診に対し日本政府は1956年の日比賠償権協定で解決済みとの立場を崩さなかった。現地では殺され傷つけられた被害者や遺族も現存していたし、敗戦後の小野田らによる殺人・傷害・窃盗がフィリピン法によって裁かれる可能性もあった。日本政府が最も気にしたのは、フィリピン政府や住民から被害を訴えられ賠償請求されることだった。戦時賠償を恐れたし、そこにしか関心はなかった。

 外交文書は、そのような「真実」を明らかにしたにもかかわらず、NHKはまったく能天気に、日本政府・外務省の主張をそのまま報道したのである。

 結局、「賠償ではない見舞金」をフィリピン政府に支払い、小野田の住民殺人・傷害に対しては当時のマルコス大統領から恩赦を取り付けた。このとき日本政府は、見舞金としながらも、ルパング島の被害住民・遺族を交渉相手にしないで、フィリピン政府、当時のマルコス政権とだけ交渉し、政府に金を支払って住民を黙らせることにした。

 「被害者らは、損害賠償請求権を行使するおそれがある。見舞金は、請求権行使を思い止まらせる効果をもつであろう」。このように交渉記録には、見舞金支出の日本政府の目的が赤裸々に記されている。

 「損害賠償請求権を行使させないために見舞金を支払う」のである。日本政府にとっては、被害者に謝罪するとか、賠償することが重要なのではない。法的責任を認めない、賠償しないことが何よりも重要なのだ。「見舞い金を拠出」し、「フィリピン政府への感謝を表明」しながらも、被害を謝罪し賠償することは決してしない方針を、小野田帰還の際にも貫いたことが確認された。「加害責任は認めない、賠償も果たさない」、その上での「見舞、お詫び、感謝」である。日本政府にとってはそれが「未来志向」であり、「日本側の誠意」の示し方であった。(当時、交渉に携わり、後に外務事務次官を務めた竹内行夫氏が、穏やかなでありながら本当のところ「非情な」卑劣な、そのような言葉でインタビューに答えている。)

 見舞金を管理・運営するのはフィリピン政府から委託された日比友好協会であり、見舞金の管理運営に日本政府は関与しないし、責任を負わない、そのようにも決めている。

 2015年12月の「日韓合意」に際しても、日本政府は「未来志向」という言葉を繰り返した。「加害責任は認めない、賠償も果たさない」、その上での「見舞、お詫び、癒し」である。侵略し加害の過去を消し去ることが、日本政府にとって一貫した「未来志向」の意味なのである。


訃報 小野田寛郎 91歳.jpg
<投降時の衣服・靴の一部>

3)3億円の使途は?

 比日友好協会は3億円を何に使ったのか?
 元日比友好協会関係者は、日本語学校の運営や、日本への留学生の支援に充てたと語った。一方、NHKの取材に対し、ルパング島の被害者遺族は、「見舞金を受け取っていいないどころか、見舞金の存在さえ知らなかった」と語り、ルバング島元町長は、「3億円が住民や島のために使われた事実はない」と答えた。

 小野田帰還に対する日比交渉の結果、結局、被害者や遺族は、日本政府から公式謝罪されることもなければ、賠償されもしなかったのである。

 これは、誰が悪いのか? 何が問題なのか?
 3億円を勝手に使った日比友好協会が悪いのであって、日本政府に責任はないことになるのか?

投降命令を受ける小野田さん1974.jpg
<1974年、フィリピン、ルパング島、元上官から投降命令を受ける小野田寛郎元陸軍少尉>

4)1956年の日比賠償権協定で解決済?

 日本政府・外務省は戦時賠償については、各国との賠償権協定で解決済との立場をとり続けている。各国との請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」と定めていることを根拠に、すでに法的責任はなく、賠償責任もない、だから新たに、あるいは追加して賠償することは禁止されており、それゆえ見舞金としてしか拠出できないという立場をとっている。個人賠償請求権問題も法的に解決済みであるとし、法的には被害者個人に賠償することが禁じられているかのように主張するのである。

 このような日本政府の理解と主張は、きわめて身勝手なものであり、国際基準から外れている。慰安婦問題では国連の人権委員会は日本政府に対し、被害事実を認め、法的責任を認め、政府が公式謝罪し、賠償することを、永年にわたって勧告し続けている。

 2016年6月には、日中戦争時に強制連行され過酷な労働を強いられた中国人被害者や遺族が三菱マテリアル(旧三菱鉱業)に対して損害賠償と謝罪を中国で求めていた問題で、同社は、生存する被害者(三菱側によると3,765人)に直接謝罪し、賠償する和解文書に調印した。謝罪も賠償も拒否してきた日本政府の主張には従わないで、民間レベルでの歴史問題の解決方法を示した。

5)個人賠償請求権は消滅していない!

 日本政府の立場、主張は、日本の司法の判断とも食い違っている。

 中国人の戦時中の強制連行を巡る訴訟が、日本の裁判所に多く起こされたが、原告側の敗訴が相次いで確定している。日本の最高裁は2007年4月、「1972年の日中共同声明で個人の請求権も放棄された」との判断を示したが、一方、最高裁は関係者に被害者救済も促しており、この点では日本政府・外務省の主張とは、食い違っている。
 
 また、2007年、中国人「慰安婦」訴訟において、日本の最高裁は、サンフランシスコ平和条約第14条(b)及び日中共同声明第5項における「請求権を放棄する」の意味について、被害者の個人賠償請求権を「実体的に消滅させる」ことではなく、「裁判上訴求する権能」を失わせるにとどまると解するのが相当であると判示した。この最高裁の論理に照らしても、個人賠償請求権は、「裁判上訴求する権能」を失ったものの、「実体的に消滅」していないのであるから、日本政府が賠償するつもりがあればできるのであって、決して禁止されているわけではない。

 日本政府・安倍政権は、アジア太平洋戦争における法的責任は認めない、賠償も決して認めない、認めたくないという歴史修正主義の政治路線、イデオロギーに憑りつかれているというのがより適切かもしれない。

 そしてNHKは、この日本政府の主張・立場を、まったく無批判に報道した。国営放送、外務省の宣伝機関の役目を果たした例を、この夜も確認したのだ。(8月22日記、文責:児玉 繁信)
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二人のロラが亡くなりました [フィリピン元「慰安婦」]

 二人のロラがなくなりました

  フィリピン女性団体カイサカのアンナさんからのメール

 マラヤロラズ(戦時性暴力被害者団体)の二人のロラがなくなりました。タルシラ・サムパン(Tarcila Sampang)とエメレンシアーナ・ヴィヌヤ(Emerenciana Vinuya)です。

マパニケ タルシラの姪の妻 (640x480).jpg
<左:ロラ・タルシアの遺族、右はマラヤロラズ代表ロラ・リタさん>

 ロラ・エメレンシアーナさんは10月1日に亡くなっていました。10月21日になってマラヤロラズ代表のロラ・リタさんから知らされました。ロラ・リタさんは私の古い携帯番号に連絡をくれたのでわからなかったのです。ロラ・エメレンシアーナさんの姪の妹がヨルダンに行っていた時にトラブルがあり、この姪の手助けをしたことがあります。1930年1月23日に生まれの82歳でした。亡くなる前、彼女には麻痺がありました。

 ロラ・タルシアさんは10月20日夜、亡くなりました。タルシラさんは、あの1944年11月23日の拷問と虐殺の犠牲者の一人でした。彼女はこの数年間糖尿病や喘息を患っており、治療のためマニラに住んでいました。1929年12月24日に生まれの83歳でした。

 添付した写真は、二つの遺族に香典を渡した時に撮りました。ロラ・リタさんが同行してくれました。
 初めの写真の若い女性はロラ・タルシラの甥の妻です。
 二つ目の写真の男性はロラ・エメレンシアーナの義理の息子さんです。

 あなたから送っていただいた香典は指示通り、二つの遺族に渡しました。二つの遺族はあなたに最も深い感謝の気持ちを表しました。遺族はコミュニティによる40日祭祈りの費用に使わせてもらうと言っておりました。

 アンナ



ーーーーーーーーーー

 この件でカイサカのヴァ―ジーさんからも下記の連絡が入りました。
ーーーーーーーーーー

 親愛なるイチロー
 マラヤロラズへの継続的な支援をいただき、ありがとうございます。私たちカイサカから、誰が香典をマパニケまで届けるか確認します。写真は後で送ります。
 ところで、カイサカとKPDと他の共闘団体や組織が、「フィリピンにおける戦争中止!」、「反核反戦アジア」を掲げ、連帯提携し、3日間のここマニラで、あるいはクラークで、スービックで、バタアンで共同行動を行います。フィリピンから米軍撤去20周年を記念する行動でもあります。11月24日は、米国向けに最後の飛行機が飛んだ日です。平和と連帯のための活動家たちの3日間の集まりです。
 スービックで、ツアーとショートプログラムが開催され、アジアとフィリピンにおける米軍のプレゼンスについて議論があるでしょう。次にバタアンで、バタアン原発に対する活動家の集まりがあります。その後マニラでもろうそくの照明でバヤニ文化のプレゼンテーションが開催されます。私たちは後であなたに、それら活動の写真を送ります。
 連帯して、
 ヴァージー(カイサカ議長)
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被害者の逝去のお知らせ [フィリピン元「慰安婦」]

被害者の逝去のお知らせ

 旧日本軍によるフィリピン女性に対するの戦時性暴力被害者団体の一つであるマラヤロラズ、パンパンガ州マパニケ村を中心に組織されていますが、そのマラヤロラズのロラ3人が、最近になって逝去されました。以下の通りです。

 ロラ・レオノール・スマワンさん
 昨年暮れ、2011年12月18日、ロラ・レオノール・スマワンさんが亡くなりました。12月24日に埋葬されました。

 ロラ・ヴィクトリア・デラ・ペーニャさん
  今年2012年に入り、2月17日、ロラ・ヴィクトリア・デラ・ペーニャさんが亡くなりました。83歳。マラヤロラズ代表のロラ・リタさんの家のすぐ向かいに住んで、長く病床にありました。

 ロラ・ギレルマ・バリンギットさん
 ロラ・ギレルマ・バリンギットさんが3月に亡くなりました。

 マパニケのマラヤ・ロラズの生存者は44人となったようです。

 (フィリピンピースサイクル事務局:平田一郎)
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 比最高裁判事、比国会で弾劾! [フィリピン元「慰安婦」]

 比最高裁判事、比国会で弾劾!

 0)はじめに

 フィリピンでも、戦時性暴力被害者団体であるマラヤロラズが、「フィリピン政府は被害者の人権回復のために日本政府と交渉すべきである」ことを比最高裁に訴えました。しかし、韓国とは違って、棄却されました。しかしその棄却判決に当たり、最高裁判事が国際的な論文を出所も明記せず、判決文にコピーして使用しました。しかもその趣旨をまげて引用したのです。比最高裁の権威は地に落ちました。フィリピン大学法学部教授37名が連名でこの「剽窃」を批判する声明を出しました。しかし最高裁は判決を剽窃したカスティーリョ判事を擁護しました。そのことが比国会で問題になり、比国会で弾劾が行われています。公聴会の様子の報告が、カイサカ議長ヴァージニアさんから来ました。

 1)2月14日比議会公聴会 

 2011年2月14日に、比議会の公聴会が持たれ、更なる証拠を確認して提出するために、ロラたちが原告として召喚されました。

 最高裁判事マリアーノ・デル・カテーリョに対する弾劾告訴の件

 まず確認しなければならないのは、マラヤロラズが比最高裁に対して提起した比国外務大臣に対する職務執行義務確認訴訟において、最高裁判事マリアーノ・デル・カステーリョが判決を書くにあたり論文の「剽窃」を行ったという点です。

 政府の職務執行義務確認訴訟においてマラヤロラズが訴えたのは、心からの謝罪に値する戦時性暴力という悪行に対して、比政府が国民を代表して被害者たちが求める正義を実現するため、比政府が比外務省に(日本政府に要求交渉を)命令する職務執行義務の履行をすべきだということです。

 2)比最高裁の棄却理由

 比最高裁に対する訴えは、以下の理由で棄却されました。
 a)比政府はすでに1951年に賠償協定を日本政府との間で締結した。
 b)最高裁は、政策執行機関にのみ定められた政策執行以外に、命令する権限がない。
 c)ロラたちが訴えた内容の請求は、国際的な法理となっていない。

 以上の判決文を書く時に、最高裁判事マリアーノ・カスティーリョは、第二次大戦中の被害者の苦しみを実際には支持している国際的に認められた著作家、学識者であるエリス、フォックス、タムス等の著作から「剽窃」したのでした。

 「剽窃」であったという理由で、再審理の請求と、追加の再審理請求が起されました。

 追加の再審理請求では、私たちは、文字通りの言葉を直接コピー(即ち剽窃された)32箇所を判決文の中に指摘しました。国際的な著作者の著述のコピーを、カスティーリョ判事は、前置きも原典に対する引用紹介もなしに、使ったのです。

 このように、問題は単なる「剽窃」の問題だけではなく、これらの原典となった著作本旨の歪曲と論理的な結論を罠に陥れるものです。
 もしこれらの著作の真実の文脈で使用されるなら、最高裁は訴えを認めるべきということになるのです。

 3) 責任逃れする最高裁

 マラヤロラズを打ちのめした棄却判決のなかで、最高裁はロラたちの痛みと苦しみを感じ、分かち合っていると述べました。しかしそれは言葉だけでした。
 再度確認しますが、最高裁は法的な被害回復義務の責任を明確に回避したのです。

 最終的な審判者であり、最終的な正義の砦と呼ばれる最高裁に正義を与えるのを拒まれたら、一体ロラたちはどこに行けばいいのでしょうか?
 最高裁は最終的には、「一方で『剽窃』は存在するが誠意を持って書いたのだから、同じことだ」と語ったカスティーリョ判事を免罪しました。最高裁は欺いたり「剽窃」したりすることは、かまわないというのです。このような判断は、明らかに間違っています。

 前述したように、ロラたちは数人の議員と共に、弾劾訴追を訴えました。下院の法務委員会は、訴えは形式的にも実質的にも十分であると認めました。そして、2012年2月14日の審理においては、双方が更なる証拠が(もしあれば)述べる公聴会が開かれたのです。

 4)公聴会でのロラの発言をめぐって

 公聴会のなかでロラたちは、次のように質問されました。「あなたたちは、訴えを提出するなかで、本当は何を求めているのか?」
 ロラたちは答えました。「私たちの正義を求めているだけです」と。
 質問されたのは、判事を追い出したいのかどうかでした。ロラたちは「いいえ」と答えたのです。「判事は悪い行いを正すべきである」と言い直しました。

 ロラたちは後で、判事が自身の間違いを修正しないならば、同じ間違いが繰り返されるのを避けるために、彼が最高裁から追い出されるのは正当で、またふさわしいことであると、説明しました。
 その時、少なくとも 3人の議員が、質問の脈絡からでたロラたちの言葉の意味を問いただし、ロラたちが訴追の要であったカスティーリョ判事の罷免を、本当は望んではいないと、ねじまげて解釈しようとしたのです。

 弾劾訴追を上院に提出するに当たり、相当する証拠があるか、あるいは相当する事件かどうかを決める投票が、2012年2月20日に予定されています。

 連帯して、2012年2月24日
 カイサカ議長  バージニア・ラクサ・スアレス

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戦時性暴力被害者に対する残虐行為は、補償されなくてはならない [フィリピン元「慰安婦」]

  
 水曜デモ1000回目アクション、世界デモの日に

 「慰安婦」と第2次大戦の他の犠牲者に対する残虐行為は、補償されなくてはならない!

  カイサカ声明
  2011年12月14日

111214 マニラ 腰にまきつけたポスター ○ (480x360).jpg

 フィリピンの女性団体であるカイサカは、1944年11月23日にマパニケ惨劇の犠牲者の闘いを支持してきました。カイサカは12月14日韓国水曜デモ1000回目アクションに加わり、フィリピン人元「慰安婦」、さらに「慰安婦」に限らない戦時性暴力被害者の正義回復を日本政府に要求します。

 日本軍性的奴隷制度の犠牲者のため国際的に協働し連帯した「マニラでの水曜デモ1000回アクション」は、韓国ハルモニ(おばあさん)の「水曜デモ1000回目アクション」と同時に行われます。第2次大戦中に日本帝国軍隊によって組織的な行われた性的虐待を告発し、ハルモニと支援者は1992年1月8日から毎週水曜日正午にソウル・日本大使館前で抗議行動をはじめました。そしてハルモニ(今では平均年齢は85才)は19回の韓国の厳しい冬を越しながらなお、冬以上に冷たい韓国政府と韓国社会の冷遇に勇敢に立ち向かってきました。

 健康が悪化し手足が弱くなっているにもかかわらず、水曜デモを継続してきた韓国人元「慰安婦」のゆるぎない意志への賞賛だけは確実に広がっています。ハルモニの存在と行動は人権の象徴です、世界中の多くの人々の支持と尊敬を得ました。人々の支持と尊敬こそが価値ある真の勝利です。私たちはハルモニの不屈の精神をたたえ、かつともにありたいと願います。

 1991年最初に勇敢に名乗り出て、性奴隷として耐えた苦しみを全世界に語った韓国のハルモニに、私たちは心から敬意を表します。半世紀の間秘めてきた「恥」と苦悩を表明することで激しい汚名を浴びせられる事態にも直面しました。しかし人権回復を願う気持ちはこれにまさりました。ヒューマニズムは名乗り出たハルモニに姿を変えて私たちの前に現れてきたのです。フィリピン人元「慰安婦」、「慰安婦」に限らない戦時性暴力被害者たちをも、奮起させて励ましました。多くのフィリピン女性が名乗り出て歴史の事実を語りました。

 私たちは今日この共同したアクションに加わります。中国、台湾、韓国、北朝鮮、東ティモール、インドネシア、およびフィリピンの犠牲者による日本政府に対する公式謝罪と補償を求める声に、私たちも加わります。

 私たちは特にフィリピンルソン島「マパニケ包囲戦」犠牲者への一層の注意をうながします。 2000年「女性国際戦争犯罪法廷」では、示されたドキュメンタリーならびに供述証拠によってマパニケ村でなされた残虐行為が明らかにされました。日本軍は迫撃砲で村を攻撃し、マパニケ小学校校庭で集めたすべての女性の前で、男たちを逮捕し拷問し大虐殺しました。そして村全体から略奪し女たちをレイプしました。

 日本政府は、これら事実をまだ公式に認めておらず、謝罪していません。犠牲者に補償してもいません。

 「慰安婦」問題について、韓国憲法裁判所の違憲判決以降の韓国政府の要請に対する日本政府の対応には、まったく誠意がありません。日本政府は過去の「暗い戦争記録」の処理において事実を明らかにし補償を求めてきたすべての被害者の声を、これまでずうっと無視してきました。現在もなおその態度は変わりません。

 日本政府の声明がその「不誠実さ」をよく表しています。「日韓の戦時補償問題は1951年の平和条約と1965年の韓国との基本関係条約で、完全に、ようやく解決された」、「それ以上は歴史の「汚物」であり、受け入れがたい」というのです。

 日本政府は明確に謝罪し補償しなければなりません。謝罪と補償こそが今後二度と同じ過ちは犯さない、人権侵害はしないと公式に宣言することであり、そのことで初めて各国からの信頼と尊敬を勝ちとることができるのです。日本政府は、言葉だけではない戦争放棄に基づいた真の平和体制を公式に保障し、そのための行動を開始しなければなりません。
 連絡先:Contact Person: Atty Virginia Suarez-Pinlac: #09298127864

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マニラでも、韓国水曜デモ1000回アクション  [フィリピン元「慰安婦」]

マニラで、韓国水曜デモ1000回アクション

 12月14日、被害者団体マラヤロラズと支援者が、日本大使館に抗議

 UCAニューズの伝える12月14日のマニラでの「水曜デモ1000回アクション」の様子です。
 ucanews.com Asia Desk, Bangkok and John Francis Lagman, Manila

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 『慰安婦』たちの最後の抗議
 多くは年老い病気のため、日本政府の謝罪を要求し続けることができない!
 
 第二次世界大戦の間に彼女らに対してなされた残虐行為に謝罪を求め、韓国の『慰安婦』と支持者が、ソウルの日本大使館の前で、毎週行ってきた抗議が今日12月14日、1,000回目を迎えました。
 韓国の被害者たちの行動に連帯して、性的に虐待された女性たちはマニラを含むアジアの都市で、「水曜デモ1000回アクション」に加わりました。そこで、日本帝国陸軍による残虐行為を非難し、日本政府が過去の誤りを認め正すよう要求し、被害者と支持者がデモを行いました。
 韓国の被害者たちは、今では80歳後半と90歳台であって、続けるにはあまりに老いています。被害者たちがほぼ20年間定期的に続けてきた毎週水曜日の抗議を続けられなくなりつつあります。

 「この問題を解決するために、私たちは日本大使館前に出かけて行って、戦わなければなりません」と、パク(87歳)さんは、韓国ヘラルド紙に話しました。
 「私が日本大使館前に出かけて抗議するのは、それが問題解決の唯一の方法であるからです。日本政府は公式に謝罪して、生存者に賠償金を与える必要があります。多くの日本人もこの問題を解決すべきだと語っています。しかし日本政府が拒絶しています。」

 弁護士ヴァージニア・ピンラック(女性団体カイサカ議長)によれば、フィリピンにはおよそ2,000人の戦時性暴力被害者がいます。

 「私たちの多くは、現在病気になっています。元気な者はほんの少数です」と、被害者の一人である81才のイザベリータ・ヴィヌヤ(Isabelita Vinuya)さんは語りました。ヴィヌヤさんは、マニラでの集会で12人の被害者と100人以上の支持者を代表し抗議しました。

 「日本軍兵士は私の両親と兄弟を殺して、家を燃やし、財産を略奪しました。そして私たちをレイプしました。本当に惨めでした」と、ヴィヌヤさんは言いました。
 1943年に、13才のヴィヌヤとパンパンガ地方マパニケの約100人の若い女性は、日本軍駐屯地に拘留され、その夜強姦されました。
 「私たちには、食事もありませんでした。一滴の飲み水さえも与えられませんでした。一部の女性は、精神的なショックから正気でなくなりました、のちに彼女らは死にました」と、彼女は思い出しながら語りました。 「とてもひどく傷つけられました。私たちはみんな怖くて、空腹で、無力でした。」

 「慰安婦」システムは、日本政府が関与した「組織的で計画的な犯罪」であったことを、日本軍による性奴隷制度のための韓国女性会議は、韓国ヘラルド紙に示しました。
 公認記録によると、日本の占有された領域からの50,000-200,000人の女性が、性的な奴隷制度を強いられました。
 韓国と他のアジア諸国からの若い女性は、日本軍の前線へ輸送されたと、レポートにはありました。その場所は、中国、フィリピン、台湾のような場所であり、そこでと彼女たちは一日につき最高40回も強姦されました、そればかりではなく、飢えて、叩かれて、拷問されました。妊娠したのがわかれば強制的に中絶させられました。

 今日12月14日、いくつかの都市で抗議行動が行われましたが、日本大使館からは少しの反応もありませんでした。

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 下記の写真は、現地から(支援団体カイサカ)直接、送られてきたものです。
 当日の様子を伝えています。

111214 CIMG1182 真ん中のがマラヤロラズ代表リタさん (640x480) (480x360).jpg
<被害者団体マラヤロラズを先頭に日本大使館に向かって行進する、真ん中はマラヤロラズ代表リタさん>


111214 CIMG1187 日本大使館前のデモ参加者 (640x480) (480x360).jpg
 <日本大使館前のデモ参加者>



111214 CIMG1195 日本大使館 正門入り口前で (640x480) (480x360).jpg
 <日本大使館、正門前に立つ被害者たち>


111214 CIMG1197 ○声明を読み上げるリタ代表 (640x480) (480x360).jpg
 <日本政府に対し公式謝罪と補償を求める抗議声明を読み上げるリタ代表>


111214 CIMG1212 (640x480) (480x360).jpg
 <垂れ幕には、「今こそ謝罪を! 第二次大戦中の日本軍による性的暴力被害者に正義を!」と書かれている>

111214 CIMG1230 女性団体カイサカ議長ヴァージーさん (640x480) (480x360).jpg
 <挨拶する女性団体カイサカ代表ヴァージーさん>


111214 CIMG1215 挨拶するチェスター ScrapVFAスポークスマン (640x480) (480x360).jpg
 <挨拶するScrap VFAスポークスマン、チェスターさん>



111214 CIMG1284 マラヤロラズ 日本大使館前 (640x480) (480x360).jpg
 <日本大使館前に立つ被害者たち(マラヤロラズのメンバー)>


111214 CIMG1273 日本大使館前で抗議集会 支援者とともに (640x480) (480x360).jpg
 <日本大使館前での抗議集会、参加者とともに>



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12月14日 世界同時行動に向けて フィリピンでの取り組み [フィリピン元「慰安婦」]

 12月14日 世界同時行動に向けて フィリピンでの取り組み
 

 12月14日、「慰安婦」問題の解決を求める世界同時行動が、日本、韓国アジア各国、欧米で予定されています。多くの女性団体、人権団体が行動への参加を表明しています。
 フィリピンでも12月14日に向けたフォーラム、各行動が計画されています。その一部を紹介します。
 
 「カイサカ」とは、フィリピンの女性団体の一つです。
 「マラヤロラズ」とは、フィリピンの戦時性暴力被害者団体の一つです。
―――――――――――――――

 「第1000回の水曜日」と呼ばれる韓国元「慰安婦」被害者と支援者による日本大使館前の水曜デモが2011年12月14日、1000回目を迎えます。2011年12月14日の国際的な同時共同行動の呼びかけに賛同し、カイサカは以下の活動を行います。

 2011年11月19日
 カイサカは、マラヤロラズの闘いならびに従軍「慰安婦」の窮境を含む第2次大戦暴力の他の犠牲者の闘いの円卓会議を持ちます。これは、闘いを広げる活動です。
 討論者は、マラヤロラズのリーダー、 カイサカのヴァージニア・ラクサ-スアレス弁護士です。
 スーザン・マクレランドが、私たちのこの円卓会議の議論に加わります。 スーザンは何度か受賞したことのある雑誌と本のライターで、トロントとスコットランドに拠点を置いています。 彼女の雑誌記事は、カナダで、ならびにロンドンとニューヨークで権威あるほぼすべての出版物でフィーチャーされました。スーザンの最初の著書は、「シエラレオネからの少女の記録」であり、現在30カ国以上で出版されています。 作家としての彼女の関心は、主に女性と子供たちの人権、戦争の影響、貧困、病気と環境に関してあり、またこれらすべての相互関連からくる諸問題にあります。2005年から、彼女はいくつかの記事、多数の特集記事執筆、調査報道と本を書き、2つの評判が高いアムネスティ・インターナショナル・メディア賞を含む賞を獲得しました。

 2011年11月23日
 マパニケ虐殺67周年を記念し、慰霊祭が持たれます。この日に間に合うように慰霊碑の周りの整備を行っています。

 2011年11月25日
 午前8時の~午前11時、カイサカは戦争と軍国主義の問題を掲げ、「女性の大衆行動ための世界行進」に、加わります。
 午後4時~午後6時に、フィリピン大学法学部カレッジで持たれるパブリック・フォーラムがあり、カイサカのヴァージニア・ラクサ・スアレス弁護士が、 フィリピン、韓国とアジアの他の地域における第2次大戦時の暴力に焦点をあて、アジアにおける戦争と軍国主義化について報告します。

 2011年12月10日
 国際人権デーを祝い、カイサカは日本兵によって犯された第2次大戦中の戦争犯罪被害者の闘いに焦点をあて、動員行動を行います。

 2011年12月14日
 カイサカとマラヤロラズは、日本大使館前で抗議集会を開きます。

 すべてのこれらの日には、カイサカは、プレス声明とプレス・リリースを発行します。

 アキノ大統領は約束を守れ!

 私たちは昨日、大統領オフィスから、マラヤロラズの事由をアキノ大統領が代表し、日本政府に補償を求め行動を起こすことを要求した2011年8月5日の私たちの手紙を、支持する通知を受け取りました。このようなことをあなたがたに知らせることができうれしく思います。

 私たちは、すぐに以下のことを求め、前述の手紙に返事を出します。
 A) アキノ大統領との謁見を求めます。
 B) ロラたちの正義を日本政府に要求する際に、アキノ大統領にロラたちを代表するよう要求します。
 C) アキノ大統領に財政援助と医療援助をロラに提供するよう要求します。
 D) マパニケを記念するこの期間に、日本帝国軍隊に対して戦ったフィリピン人の名誉をたたえ、「赤い家」またはマパニケ慰霊碑を、歴史上の記念すべき場所として取り扱うように、アキノ大統領に要求します。

 団結において、
 ヴァージニア・ラクサ・スアレス
 カイサカ議長

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 追記:
「マラヤロラズ」とマパニケ虐殺のこと
 1944年11月23日、旧日本軍((第二戦車師団 師団長:岩仲義治中将)がフィリピン、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村の住民をマパニケ小学校に集め、男たちを虐殺し、火にかけました。女たちは日本軍が駐屯地していた地主の家「バハイナプラ(=赤い家)」に集められ、レイプされました。
 虐殺された男たちの遺骨は、のちにまとめて集められ、マパニケ小学校の一角に埋葬されました。現在、その上にHOLY ANGEL UNIVERSITYの寄付による慰霊碑が建てられています。現在もなお、慰霊碑の下にマパニケの男たちの骨があります。マパニケ村の被害者たちを近年、学生を含む多くの日本人が訪れ、被害の事実・実態を学んでいます。
 マパニケの戦時性暴力被害を受けた女性たちが「マラヤロラズ」に参集し、日本政府の公式謝罪と補償を要求しています。
 今年の11月23日にも慰霊祭があり、急遽、慰霊碑を整備することになりました。屋根とベンチを設置すると聞いています。整備のための費用として、すでに拠金を呼びかけています。これまでカサナグの会として連帯支援してきました。皆さんのご協力をお願いします。
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フェリシダットさんの証言 [フィリピン元「慰安婦」]

 少し時間が経ってしまいましたが、フィリピン戦時性暴力被害者の一人であるフェリシダットさんが7月に来日された時にお聞きしたお話しを紹介します。
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 「女たちの戦争と平和資料館(wam)」の第9回特別展の開催にあわせて、フィリピン元「慰安婦」団体リラピリピーナから二人の女性、被害者の一人フェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さんと、コーディネイターであるリチェルダ・エクストラマドゥーレさんが来日し、7月2日オープニング・イベントが開催されました。

 来日に合わせ、7月3日三鷹で、「フィリピンから二人の女性を迎えて」―お話と映画上映―の会を持ちました。映画「カタローウガン!、ロラたちに正義を!」を上映し、そのあとフェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さんからお話を聞きました。紙面の都合から、レイエスさんの証言のみを紹介します。レイエスさんは、映画のなかでも証言されています。
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フェリシダット・レイエスさんの証言
110703 三鷹2237 レイエスさん (527x640).jpg
<7月3日、証言するフェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さん>

 私の名前は、フェリシダット・デ・ロス・レイエスです、女性団体ガブリエラ傘下、フィリピン元「慰安婦」被害者団体リラ・ピリピーナのメンバーです。私の生まれた場所はマスバテ、誕生日は1928年11月22日、82歳です。私の体験をお話しします。

 戦争前、私の家族はフィリピンのマスバテに住んでおり、父はドレスをつくる小さなビジネスをしていました。区役所から警察や軍隊の制服の注文を受けました。その時、マスバテのなかのミラグロス町に引っ越し、私はもうすでに14歳でしたが、小学校に入り一年生になりました。何度も小学校に入り直しており、何度か目の一年生でした。
 ミラグロス町にいた頃、戦争になるといううわさが広がりましたが、私の父は「おーっ、また戦争の話かい、ずーっと戦争の話ばかりだけど、まだ大丈夫よ。」と、ちょっとのんびり構えていました。でも、ある裁判官から「逃げた方がいい。あなたはバンカ(魚をとる小さい船)を持っているから、いつでも逃げられるように川そばの船に住んでいた方がいい。」と忠告されました。

 しばらくして、ミラグロスに日本軍がやって来ました。私たちの家族は服をつくっていましたので、その関係で知り合いがいて、いろんな人と一緒にミラグロス町から外へ逃げることになりました。真夜中に荷物・家財道具を持って逃げまわりました。途中、木の下で一晩過ごしたこともありました。明け方、布をテントのように張った仮の宿に泊まったりしました。そこはディナクリパン村でした。当時、私の家族はそれほど生活には困っていませんでした。父は農業もやっていましたから、食べ物もそんなには不自由していませんでした。

 日本軍はミラグロスへやって来て、ミラグロス小学校に駐屯しました。ミラグロス小学校は町で一番大きい建物で、日本軍が接収しました。いろいろ調べたのでしょう、何カ月かたって日本軍は他のいろんな場所にも駐屯してきました。
 私たちの逃亡先であるディナクリパン村にも、日本軍がやって来ました。日本軍から「ここは抗日ゲリラが多く戦闘の激しい地域だから、シビリアンであるあなたたちは前の住所であるミラグロス町に帰れ!」と言われました。
 私の父は、帰りたくなかったのです。そうすると日本軍から、「もし帰らなかったらあなたをゲリラとみなす。ミラグロスだと学校もある。帰ったら子供たちは学校へ行ける。帰れ!」と言われ、ほとんど強制的にミラグロスに戻りました。
 ミラグロス町に帰った時、私たちの家はすでに燃やされたあとでした。家財は壊され、家は焼かれ、豚小屋も豚も焼かれていて、家族みんな大変なショックを受けました。逃げた家族はゲリラ、もしくは支持者とみなされ、破壊されたのです。

 通常フィリピンの学校は9月から始まります。この時私は8月から学校に入りましたが、ずうっと1年生ばっかりだったので、今度は2年生に入ることになりました。クラスには30人いて、チェドロ先生でした。
 学校には日本人の先生がいました。ミラグロス小学校のなかに日本軍の駐屯地があり、いつも日本軍兵士がいました。そこから日本語を教えに日本人の先生が来ていました。
 そのうち日本軍の偉い人が来ることになり、ウエルカムパーティをやることになりました。先生から、私は日本語が上手であると選ばれて、歓迎会に出演することになったのです。日本人先生が歓迎会プログラムをつくり、日本語の歌「見よ!東海の空あけて」を覚えました。私の番号は7番でした。

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<フィリピン元「慰安婦」団体リラピリピーナのコーディネイターであるリチェルダ・エクストラマドゥーレさん>

 歓迎会は金曜日でした。三台のトラックがきて、日本軍兵士でいっぱいになりました。その時の私たちの気持ちはうれしかったのか、恐かったのかよくわからないような状態でした。
 歓迎会のはじめのうちは、日本兵はすごく優しかったし、そんなに問題はありせんでした。歓迎会で私は歌いました。
 そのあと一人の日本人兵士から、「ナンバー7!学校の裏に来い!」と呼ばれました。先生に聞くと、「他のクラスメートもいるから大丈夫、心配しないで行きなさい」と言われ、先生の言葉を信じて行ったのです。しかし行ってみると誰もいません。私は急に恐くなり、「皆のいるところに戻る」と抗議しました。すると突然二人の日本兵に手を引っ張られて連れて行かれてしまいました。
 向学心があって日本語がすこしできたばかりに、学校の先生から選ばれ、「日本軍兵士のところへ行きなさい」と言われました。送りだしたらレイプされるのは教師もうすうす知っていました。にもかかわらず、学校ぐるみで日本軍に協力し、その結果たくさんの少女たちが犠牲になったという事情もあったのです。

 日本兵に連れて行かれた時は、本当に恐かったのです。「なんで他の生徒がいないのか!」と必死で抗議しました。「とにかく、待て!」と言われました。しばらくたって暗くなった頃、5人の日本兵がやって来ました。一人は将校らしく立派な軍服を着ており、リーダーのように振る舞いました。残りの4人は普通の兵士で、私を部屋に連れ込みました。4人が私の手をつかんだ状態のまま、その将校によって足をけられ、平手打ちにされました。すごく恐い思いをしました。

 そしてその5人の兵士から私はレイプされました。セックスの経験は初めてでした。私はレイプの被害にあってとてもショックを受けました。

 最後の兵士がレイプした時に、外から笑う他の兵士たちの声が聞こえました。その時私はあらためて大変な屈辱を覚えました。動物か何かように扱われた、人間扱いされていない、と感じました。
 私は何度も「家に帰らせて!」と訴えました。しかし兵士たちは「もう暗いから」と言って結局、帰らせてくれません。朝になったら帰れるかと思いましたが、夜が明けても返してくれません。その日から毎晩、日本軍兵士たちにレイプされ続けました。食べ物をくれはしましたが、私はショック状態で食欲が全然ありませんでした。なにも食べられない状態が続きました。
 いつも外から日本軍兵士たちの笑い声が聞こえました。私は屈辱と不安でずうっと泣いていました。何日も泣いていると、とうとう涙が枯れて出なくなりました。食べ物はやはり食べられませんでしたが、コーヒーは飲みました。何日かをコーヒーだけで過ごしたのです。ある晩、隣の部屋から女性の泣き声が聞こえてきました。「誰かいる、私だけじゃない、他の人もレイプされている」と思いました。

 とても辛かったので、家に帰りたい気持がますます強くなり、いつも「帰りたい!」と大きな声をあげました。そのたびに「うるさい!」と怒られました。日本軍兵士のなかにはタガログ語を話す兵士もいたのです。「うるさくしたら、殺す!」と言われました。私は、むしろ「殺してくれ!」と叫びました。「何度もレイプされ続ける生活はつらくて、耐えられない気持ちがつのり、死んだ方がマシ」と思ったのです。
 部屋のドアは薄い鉄製(トタン?)の扉でした。私は「帰りたい!」と叫びながら何度も蹴りました。兵士から「ほんとにうるさい!殺すぞ!」と何度も言われました。

 ある夜、3人の日本軍兵士が入って来ました。しかし私は「いやだ!いやだ!」と叫びました。3人のうちの一人が私の身体に触った時、熱があることに気づきました。レイプをやめ外で話していました。
 しばらくして「もう、家に帰れ!」と言われたのです。私の体の異常に気づいたのでしょう。熱病か何かに感染していると誤解し、うつされると恐れたのかもしれません。家まで送ると言いましたが、私は「いやだ!ひとりで帰る」と強く断りました。だって恐いから、またレイプされるかもしれないと思ったからです。

 学校から家まで、身体がすごくつらくてやっとの思いで歩いて帰りました。ろくに食べていなかったので身体が衰弱していたのでしょう。家に帰る道には深い草むらがあり、誰かいるんじゃないか、また襲われるのではないかと、とても恐かった記憶があります。
 ミラグロス小学校から家までだいたい2km離れていました。家に帰った時に、家の前には誰もいませんでした。父は魚を獲りに出かけていました。そのうち姉妹たちをみつけましたが、泣いていて近づこうとしません。私は家に入りました。母がいました。母と抱き合って、私たちはずっと泣き続けました。
  しばらくして母に、「どうして父や家族は、私を連れ戻しに来なかったの!」と尋ねました。
 当時、日本軍のやることには逆らえなかったのです。父が私を連れ戻しに行くことは、危険な行為でした。殺されるかもしれなかったのです。そういう規則だと言われたそうです。父は危なくて来ることができませんでしたが、のちに父からはすまなかったと言われました。

 私の姉とカメラマンの仕事をしているその夫がフィルムを買いに行く途中、日本軍兵士に出会い、お辞儀しなさいと命令されましたが、恐かったからあまりうまくできませんでした。フィリピン人にはもともとお辞儀する習慣はありません。その「態度」だけで逮捕されて、姉の夫は太陽の下で拷問を受けました。同時に捕えられた姉は、区役所の建物に監禁されてレイプされました。姉は子供を産んだばかりでした。 
 姉の夫は、かわいそうにすぐ後、亡くなってしまいました。当初家族は、私には亡くなった理由を教えてくれませんでした。「どうして兄さんは死んでしまったの!」と聞いても、みんな何も言わず私には秘密にしていました。私を気遣ってくれていたのでしょう。しばらくしてやっと教えてくれました。姉がレイプされたことが、ショックで亡くなったと言うのです。それを聞いて私は涙が止まりませんでした。

 当時のミラグロス町は、日本軍にいつ捕まり監禁されレイプされるかわからない危険な状態でした。私も危ないから、父から「お兄さんの家に引っ越したほうがいい、そこの学校に行くこともできる」と言われました。

 そのあとで私は逃げるように違う村に引っ越ししました。その頃にもう戦争はほとんど終わっていました。私たち家族は逃げまわってきたので家も財産も失っており、家族の生活はまったくひどいみじめな状態になりました。

 そうして再びマスバテに引っ越しました。父はまた縫製の仕事をはじめました。私はマスバテで6年生まで学校に行きました。
110703 三鷹2233 アリソン・オパオンさん (489x640).jpg<当日、通訳をしてくださったアリソン・オパオンさん、歌も歌ってくださいました>

 私は本当は先生になりたかったのです。戦争が終わったあとも勉強し先生になりたかったのです。しかし父は「家にはそんなお金はない」と、許してくれません。「それより服をつくる仕事を覚えろ!」と言われました。日本軍にレイプされ、私の人生は大きく狂わされました。それは大変な惨劇でしたが、それだけにとどまりませんでした。私の家族には日本軍に殺された者もいます。戦争で家族は財産を失いました。そのせいで私は上の学校に行くことはできず、すぐ働かなければなりませんでした。

 父の仕事を手伝い、そうして縫製の仕事をすることになりましたが、ただ、最初はどうやっていいかわかりませんでした。「いままで見ていなかったのか!」と父に怒られました。
 ちょうどその時ズボンを縫う急ぎの仕事が入り、「これをやれ!」と言われました。受取日になって、発注した人が来ましたが、できていませんでした。一日待ってもらい、その晩頑張ってやっと完成しました。そのようにして私は仕事を覚えました。
 
 これらは私のつらい、くらい経験です。決して死ぬまで忘れることはできません。最初は人前で話すことはできませんでした。すごく悲しいことですし、話し出すと私の気持ちも体もつらくなったのです。でも今はやっと皆さんに話すことができるようになりました。

 戦争の時はそれはそれは本当に大変でした。ろくに食べ物がありませんでした。たとえ目の前に食べ物があってもとにかく逃げまわらなければならず、食べるどころではなかったこともありました。家畜もいましたが、全部日本軍に押収されました。あの頃は本当につらかったのです。
 
 戦争の時に日本軍によって私のいとこの一人が殺され、叔父さんの一人も殺されました。私や姉はレイプされました。家族は財産を失い、ひどい生活を強いられました。戦争は本当によくありません。本当にやめなくてはなりません。そのために私たちは、団結して反対しなくてはなりません。

 日本軍が降伏した時、私の心の中には復讐心がありました。日本軍兵士からレイプされ大変な思いをしましたし生きる希望も失っていましたから、日本兵をひとりだけでもいいから殺し、自分も死にたいと思っていました。そんな精神状態でした。皆さんに、ご理解いただけるでしょうか。
 でも日本軍兵士も、戦争中にまたそのあとになっても、たくさん死にました。その姿もみました。かわいそうであるようにも思うようになりました。

 私にはつらい経験があります。でも私だけではありません。同じような被害を受けたロラがたくさんいます。そのことを決して忘れてほしくないのです。
 ロラたちのためにこの話を歴史の本に残し学んでほしいのです、ロラたちの正義を回復してもらいたいのです。そうして私たちのような女が二度と生まれないようにしてほしいのです。

 日本政府は被害の事実をようやく認めてはいますが、公的な謝罪も補償もしていません。私たちは望んでいるのは日本政府の公的な謝罪と補償です。
 私の話を聞いてくださり、ありがとうございました。

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ピースサイクル、フィリピンの戦時性暴力 被害者3団体を訪問 [フィリピン元「慰安婦」]

 ピースサイクルフィリピンの戦時性暴力 被害者3団体を訪問

 フィリピンには戦時性暴力被害者団体が、リラ・ピリピーナ、マラヤロラズ、ロラズカンパニェーラ3団体ありますアジア女性基金をきっかけにして別れてしまった経緯があります。
 フィリピン・ピースサイクルは、被害者としては同じなので、これまで3団体とも交流してきました。ピースサイクルの日程は限られており時間がなく、十分なきちんとした交流ができませんでしたが、中央ルソン、パンパンガ州とマニラ地域をまわり、3団体とも訪問し、近況報告しあいました。

 アラヤットのロラズカンパニェーラ

110306 アラヤット ロラズカンパニェーラのロラたち.JPG
<ロラズカンパニェーラ アラヤット支部の皆さんと>

 3月6日午前中、パンパンガ州アラヤットの町に、ロラズカンパニェーラ・アラヤット支部を訪れました。事前に手配いただいていて、アラヤット町シニアシチズンセンターに多くの被害者が集まっておられました。被害者だけでなく、町のシニアシチズンの代表も参加されていました。

 アラヤット町は、アラヤット山のふもとにあります。アラヤット山には、第2次世界大戦中、抗日ゲリラの一つであるフクバラハップの根拠地がありました。パンパンガ平原は島国フィリピンでは珍しく広い平原であり、穀倉地帯です。その平原のどこからもコニーデ(富士山)形状の美しいアラヤット山を見つけることができます。

 この町の年配の方のなかには、フクバラハップのメンバーだった方がいますし、この日も参加されておりました。被害者であるカンパニェーラのメンバーのなかにも、メンバーだった人がいます。
 ピースサイクルがアラヤットのロラを訪問したことを、たいそう喜んでくださいました。シニアシチズンの代表は、今後日本の支援団体とも連携をとり、シニアシチズンとしてロラの支援をしたいと言われました。

110306農民とアラヤット山.JPG
<アラヤットからマパニケに移動途中にみたアラヤット山>

 マパニケのマラヤロラズ

 3月6日の午後、アラヤットから東方向にあるマパニケに車で移動しました。現在は水田が広がっていますが、もともとは湿原地帯であり、雨が降ると泥道になります。道は舗装されていません。泥道を四苦八苦しながら、2時間ほどでパンパンガ州カンダバ市マパニケに無事到着しました。

 マラヤロラズでも歓迎集会を開いていただきました。
 5年前にマラヤロラズが裁判所に提出していた「フィリピン政府に対し日本政府に解決を働きかけるよう求める」請求が、2010年4月28日フィリピン最高裁で棄却されました。判決文の剽窃・盗用が問題になりました。UPの教授やマスコミが告発しました。マラヤロラズの代表も国会に行ってこの許せない判決を書いた判事を追及する取り組み、またマスメディアでも告発しました。

110306 マパニケノマラヤロラズ 歓迎のダンス.JPG
<マパニケ マラヤロラズによる歓迎集会でのダンス

 マパニケには、ここニ、三年、学生を含む多くの日本人やフィリピン人がマパニケを訪れるようになり、ロラの声、告発に耳を傾けています。
 歓迎集会にはバランガイ議長や議員、ロラの孫たち、家族も参加していました。マラヤロラズの主張や活動は村中が知っていますし、支持しています。
 昨年の経験を経て、マラヤロラズのロラたちは大変明るく自信に満ちていたように見えました。逆にわたしたちがたくさん勇気づけられたように思います。

 マニラのリラピリピーナ

 3月7日午後、マニラのリラ・ピリピーナを訪ねました。日本のロラ支援団体の呼びかけた寄付でロラズセンターができており、「慰安婦」関係のいろんな資料がありますし、展示もされています。年間1,000人の来訪者があるとのことでした。フィリピン人や日本人の学生、さらには他の多くの人たちが訪れて、歴史の真実をあらためて学んでいます。ロラズセンターができて本当によかったと思いました。
 ロラズセンターにマニラ近辺からの被害者たちが集まってくるそうです。この日は3名のロラがいました。昨年12月8日の女性国際戦犯法廷10周年記念シンポジウムに参加されたナルシサ・クラベリアさんがおられ、熱心に「花丸雑巾」をつくっておられました。
 「花丸雑巾」とは、端切れを貼り合わせて花瓶敷のような、雑巾のようなものです。昨年来日の際に日本へ持参され、集会などで販売しました。100円だったこともあってよく売れました。フィリピン人らしい原色の大胆な組み合わせも好評でした。
110308 国際婦人デー デモ行進するリラ・ピリピーナのクラベリアさん.JPG
<3月8日、国際婦人デー デモ行進するリラ・ピリピーナのクラベリアさん>

 リラピリピーナ・コーディネーターのリッチーさんから、最近の状況、活動について聞きました。残念なことに健康状態のようないロラが多いとのことでした。
 3月8日の国際婦人デーのデモに参加すると言われていました。

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マパニケでのピースサイクル歓迎集会 [フィリピン元「慰安婦」]

 マパニケでのピースサイクル歓迎集会
 
3月6日午後13:30~  パンパンガ州 カンダバ市 マパニケ村


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<3月6日、マパニケでのピースサイクル歓迎集会>

 マラヤロラズ代表:ロラ・リタ

 みなさんの支援ありがとうございます。特にピースサイクルのみなさんが私たちを支援してくださっていることに感謝します。私たちはみなさんが友人として支援くださっているととらえております。
 三多摩・ピースサイクルの平田さんたちは、毎年わたしたちのところを訪れてくださっています。みなさんの、忍耐強い絶えることのないわたしたちへの支援を感謝しております。
 やはり私たちを支援してくださっているカイサカのみなさん、特にロットロットレキゾ(バロット)さんに感謝します。
 バランガイ議長、議員のみなさんに感謝します。日本のみなさんの支援、私たちの正義を回復するために訴えをしてくださっている日本のみなさんの支援に特に感謝します。
 ピースサイクルとは別に、アイダ、市川さん、ACCEというグループでわたしたちを支援してくれます。いつも多くの学生をつれてマパニケを訪れてくれています。

 わたしたちは、第二次世界大戦中、日本軍によってマパニケの若い女性たちに対して加えられた辱め、性暴力の被害者です。
 当時マパニケの男たちは日本軍に虐殺されました。私たちは財産も奪われ、家も焼かれました。このような被害を是非日本政府に認めさせることを期待しています。みなさんの、日ごろからの支援に感謝しています。

 バランガイ 議長:カタプタンさん

 日本から来てくださった皆さん、普段から正義を求めるロラたちの支援をしてくださり、非常に感謝しております。彼女たちは戦争の被害者でありまして、わたしたちのおじいさんおばあさんの世代が被害を受けました。このような問題に対して日本のみなさんが支援を続けてくださっていることに感謝いたします。またフィリピンのカイサカのみなさんにも感謝いたします。今後もぜひ継続していただければと思います。

 KDP チェスター・アンパロ

 一言、挨拶します。
 私たちKPDは、女性団体カイサカによる「ロラたちの正義を回復する活動」に賛同し、一体となって闘っています。日本政府はこのマパニケ村だけではなく、そのほかのフィリピンの町、村で行った日本軍による性暴力加害の事実を、まず認めるべきであります。それを認めさせるために私たちは闘っています。フィリピン人として、この問題を解決していくことが重要だと考えているからです。日本政府は、まず公式の謝罪と補償を実現すべきです。そのため私たちは、活動をさらに強めて行かなくてはならないと考えております。

 バランガイ議員 アマド・パラシオさん

 マパニケのロラたち、亡くなったロラたちも含めてですが、日本政府に対する正義を回復する闘いをわれわれは支援したいと考えております。

 参加したロラの自己紹介
 19名のロラと8名の代理の方が参加くださいました。

DSC_2933 ○ロラたちのダンス.JPG
<ロラたちの歓迎のダンス、マパニケで>

 三多摩・ピースサイクル 平田一郎

 日本側の現状について、報告します。
 今日は大勢のロラに集まっていただいてありがとうございます。
 簡単にこの2年間を振り返って、性奴隷制度、いわゆる「慰安婦」被害者に対する謝罪と補償問題の動向について、簡単に報告したいと思います。
 最近の日本での女性団体の取り組みについて言いますと、2010年11月25日、日本政府に、早期に法律を成立させ、「慰安婦」制度の被害者に対し謝罪と補償するよう求め、60万人以上の署名を提出しました。私たちもその提出行動に参加しました。当日は300人を超える人たちが国会内に集まりました。韓国からも、被害者、韓国の国会議員が参加されました。
 この時に韓国から、またフィリピンからも被害者の方が参加されました。この60万人の署名のなかには、韓国から45万人分の署名が含まれています。日本からは16万人の署名が集まりました。また、1万を超えるフィリピンからの署名も含まれています。この時、韓国の国会議員177名の署名も持参され提出されました。

 そのあと、12月11日、大韓弁護士協会と日本弁護士連合会の共同声明が出されました。声明では、
 ・「慰安婦」制度の被害救済のための立法を行うこと
 ・日本政府として、被害者に対し早期に謝罪と補償を行うこと、
 ・徹底した全容解明をおこなうこと、
 ・教育、広報等を通じ,社会に広く定着させること、被害者を貶める言説については,政府として反論をすること。

 しかし現在のところ残念なことに、日本政府はこの問題の解決しようとしていません。日本政府にはいまだ、法律をつくって補償する動きを見せておりません。1年半前に日本では政権交代し新しい政権ができました。私たちも、またロラたちを支援する大勢の日本のグループがありますが、みんな大きな期待を抱きました。様々な働きかけを何度も行ってきました。しかし残念ながら、この新しい政権はいまだ謝罪と賠償のための立法をしようとはしていません。これまで8回法案を提出し、廃案になりました。9回目の法案提出する動きをいまだ見せていません。

 そういうなかで、私たちは各地方自治体に働きかけ、「日本政府は早くこの問題を解決すべきだ」という内容の意見書を、地方議会で採択する運動を繰り広げてきました。私たちの住んでいる三鷹市議会でも意見書を採択させてきました。東京の6市議会で意見書が採択されました。日本全国で36の地方自治体・議会で「日本政府は早く解決しなさい」という意見書を採択させてきました。

 残念なことに、昨年もマパニケのロラたちが3人なくなりました。本当に残念でなりません。悲しいことです。皆さんばかりではなく、家から出られなくなった人とか、あるいは、皆さんも私の母親と同じくらい年配で、健康がすぐれないことも多々あると思います。
 皆さんの近況について、今後もカイサカのバロットさんを通じて日本の私たちに伝えていただきたいと思います。

 私たちはそれほど大きな団体ではありませんし、たくさんの基金を持っているわけではありませんが、できるだけみなさんの状況にこたえられるように、今後も取り組んでいきたいと思います。

 また、昨年、「インクワイアラー」紙をはじめ多くの新聞で、みなさんのことが伝えられました。5年前皆さんが提出した、「フィリピン政府に対し日本政府に解決を働きかけるよう求める」請求が、昨年4月28日フィリピン最高裁で棄却されました。判決文の剽窃・盗用が問題になり、UPの教授やマスコミが告発しました。皆さんの代表も国会に行ってこの許せない判決を書いた判事を追及する取り組みをしました。その報道は私たちを勇気づけました。
 ありがとうございました。

 リタ代表

 わたしたち、平田さんがおっしゃったようにたくさんの訪問者が来ています。2月24日。3月1日。3月3,4,5日も訪問を受けました。多くは大学生が中心なのですけれども、わたしたちの話を聞いてくれます。そして最後に、「私たちに望むことはありますか?」とよく聞きます。その時に私たちがいうのは、「是非私たちのことを日本で多くの人に伝えてほしいということです、そしてできることであれば、日本の最高裁に私たちがしたように申し立てを提出してほしい、それはつまり、日本の政府が私たちに対して謝罪と補償を実現するように働きかけてほしい」と言います。日本政府が動かないのであれば最高裁に働き変えを貰えないだろうかとお願いしました。



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マパニケの虐殺碑のこと [フィリピン元「慰安婦」]

 マパニケの虐殺碑のこと 

 3月6日、2011フィリピン・ピースサイクルは、フィリピン、パンパンガ州マパニケを訪れ、被害者団体マラヤロラズと交流しました。

 マパニケの虐殺碑のこと

DSC_2903 マパニケの碑.JPG
HOLY ANGEL UNIVERSITYが建てた虐殺された人たちの碑、マパニケ小学校に立つ>

 1944年11月23日、旧日本軍がフィリピン、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村の住民をマパニケ小学校に集め、男たちを虐殺し、火にかけました。女たちは日本軍が駐屯地していた地主の家「バハイナプラ(=赤い家)」に集められ、レイプされました。

 虐殺された男たちの遺骨は、のちにまとめて集められ、マパニケ小学校の一角に埋葬されました。現在、その上にHOLY ANGEL UNIVERSITYの寄付による慰霊碑が建てられています。
 現在もなお、慰霊碑の下にマパニケの男たちの骨があります。

 マパニケ村の被害者たちを近年、学生を含む多くの日本人が訪れ、被害の事実・実態を学んでいます。つい先日、関西学院大学の武田丈教授とそのグループの人たちが訪れました。最近、マパニケを訪れる人たち、グループが増えました。

 被害者団体マラヤロラズのリタ代表によれば、慰霊碑をきれいに立派に保つことによって若い世代に伝えることもできる、ここで何があったか伝えたいという趣旨だそうです。HOLY ANGEL UNIVERSITYは、「寄付で慰霊碑の三方に壁を作りたい、壁は座る場所もつけて、できれば屋根も設置したい」という意向があるそうです。

 「1944年当時の小学校校舎は現在の位置ではなく、籾を広げて干している校庭のあたりにありました。校舎といってもニッパヤシで葺いた簡単なものでした。慰霊碑のあるこのあたりや、現在、小学校の近くにある家々も、当時はまったく何もなく、ただ田が広がっていました。
 実は、11月23日の虐殺での生き残りが一人だけいました。日本軍は男たちの腕を縛って小学校に集め、マシンガンで撃ち殺しました。そのあと日本軍は死体にを集め火をかけました。しかし、その男の人は生き残っていて、死んだふりをしながら、燃え盛る火のなかを這って、田んぼ伝いに逃げたらしいのです。それで助かった人が一人だけいました。身体に大きなやけどを負っていました。ただ、3年くらいして亡くなりました。結核で亡くなったはずです。30歳くらいでした。
 最近、マパニケを訪問してくれる人が多くなりましたが、みな、この慰霊碑を訪れてくれます。昨日3月5日、マパニケを訪れた日本人グループも、この慰霊碑を訪れました。ろうそくの跡がたくさん残っているでしょう。」と、リタさんは語りました。

 バハイナプラ

DSC_3009 ○修理されたバハイナプラ.JPG
<修理されたバハイナプラ(=赤い家)>

 バハイナプラが修理されたと聞き、どのようであったか、リタさんに確認しました。
 「去年の4月に持ち主である地主の孫が帰ってきて、外側にペンキを塗り屋根を修理しました、中は修理していません。前と同じではありません、外にペンキを塗り、雨漏りをしていたので屋根を葺きなおしました」とのことでした。

 2008年3月1日でしたか、当時の安倍首相が、慰安婦について、「強制性を証明する証拠はない」(3月26日に撤回し謝罪した)と発言した時に、ちょうどピースサイクルでマパニケに来ておりました。その時に、

 ベンガラの 色は褪せても バハイナプラ ロラの苦しみ 消ゆる時なし

 と詠みました。

 そのバハイナプラ(=赤い家)にペンキを塗って修理したと聞いて、驚いたのです。
 
 マパニケからの帰り、バハイナプラに寄りました。確かに土台の壁、鉄製の金具にペンキが塗ってあり、濃いエビチャ色でありました。建具の柱には何も塗ってありませんでした。思っていたほどけばけばしい色ではありませんでした。(文責:児玉)

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日本政府が補償しないのなら、フィリピン政府が、被害者を救済する [フィリピン元「慰安婦」]

アキノ大統領声明 

日本政府が補償しないのなら、フィリピン政府が、被害者を救済する

 2004年に、フィリピンの戦時性暴力被害者団体の一つであるマラヤロラズが、「フィリピン政府は日本政府にたいし、戦時性的暴力を受けた被害者たちに、公的謝罪と賠償するよう働きかけることを求めた」訴えを裁判所に提出していました。2010年フィリピン最高裁は、この請求を棄却しました。

 そのこと自体問題ですが、さらにひどいことに判決文のなかの棄却理由についての叙述数か所において、最高裁はイギリスアメリカの国際政治学者の論文から盗用・剽窃し、そのまま判決文としていたことが判明しました。この盗作・剽窃をフィリピン大学法学部教授たち37名が指摘し批判する声明を出しました。そうしたところ、最高裁は逆にフィリピン大学法学部教授たちを脅すという態度に出てきました。

 フィリピン司法の最高権威である最高裁が、こともあろうに判決文を盗用し、しかもそれを指摘した法学者を権威を持って脅迫したのです。いい加減というか、相当な腐敗ぶりというか、フィリピンの人々を呆れさせました。同時に多くのフィリピン国民の怒りを買いました。新聞などが大きく報道しました。
 
アキノ大統領、37名を支持する

 この最高裁の対応に対して多くの民主団体、女性団体が批判しましたし、抗議行動さえ起きています。実際に判決文を書いた判事の名も明らかになりました。原告である被害者団体マラヤロラズは最高裁に、再考を促す嘆願書を提出しました。世論が盛り上がりました。「最高裁の脅迫」への批判は広がりました。その結果、11月19日(金)アキノ大統領自身が、最高裁の脅迫を受けた「37名を支持する」という声明を出すに至りました。

日本政府が補償しないのなら、フィリピン政府が被害者を救済する

 さらに、「慰安婦」問題への解決を求められ、アキノ大統領は「正義は被害者たちにある」ことを認めざるを得なくなりました。世論と運動の盛り上がりは、「1951年サンフランシスコ講和条約をもって日本政府の戦時賠償の責任はないことを認めた当時のフィリピン政府は誤まっていた、アキノ政権はその誤りを自身の責任として果たす。日本政府が補償しないのなら、フィリピン政府が予算を確保し、被害者を救済する」という声明を引き出しました。

 アキノ大統領の声明はこれまで経過から見ても、画期的なものです。ただし、実際に補償されるかどうかはこの先の要求と運動にかかっています。フィリピン政府がどのように被害者を認定するのかなどの実際的な手続きさえ、まったく明らかになっておらず、このような事務上の手続きの面でもいくつもの解決されなければならない問題が横たわっています。

 また、「世論の批判をかわすため、フィリピン政府が補償する費用は、日本政府がコッソリ出すのでは?」といううわさもあります。しかし、たとえそうであったとしても、日本政府の責任がより明確になるわけであり、運動にとって何の障害にもなりません。

 アキノ大統領声明は、「サンフランシスコ講和条約で請求権を放棄したので日本政府に対して謝罪と補償を請求しない」という立場に立っています。すなわち、日本政府の責任を免罪しており、この点は問題です。しかし、このことは日本政府の無責任さと「慰安婦」問題の解決を求める日本におけるわたしたちの力の弱さを表現しているのであって、この解決は私たち日本人が解決しなければならない問題なのです。

 今後、フィリピンでの元「慰安婦」の人たちを支援する運動はさらに発展していくとは思います。世界における「慰安婦」問題の解決、人権を求める要求は強まることはあれ小さく弱くなることはありません。このような世界中の声と連携し、日本政府の公式謝罪と補償を実現していかなくてはなりません。
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比最高裁がフィリピン大学法学部教授たちを脅かす [フィリピン元「慰安婦」]

 少し時間が経ってしまいましたが、インクワイヤーなどの記事で紹介されていますので紹介します。

 フィリピンの被害者団体マラヤロラズが、「フィリピン政府は日本政府にたいし、戦時性的暴力を受けた被害者たちに、公的謝罪と賠償するよう働きかけることを求めた」訴えを、2010年7月フィリピン最高裁は、棄却しました。
 そのこと自体問題ですが、さらにひどいことに棄却理由を、最高裁は国際政治学者の論文から剽窃しました。いい加減というか、相当な腐敗ぶりというか、フィリピンの人々を呆れさせました。

 この剽窃をフィリピン大学法学部教授たちが指摘し批判する声明を出しました。そうしたところ、最高裁は逆にフィリピン大学法学部教授たちを脅すという態度に出てきました。
 
 最高裁に対して多くの民主団体、女性団体が批判するとともに、抗議行動さえ起きています。 
 この問題について、ジーン・エンリケさん(アジア太平洋-強制連行に対する(CAT-AP)女性連合事務局長)声明(フィリピンインクワイアラー10/30/2010)を紹介します。
――――――――――――――

比最高裁がフィリピン大学法学部教授たちを脅かす

1)名のり出た慰安婦たちのこと

 ロラ・ロサ・へンソンさんが、第二次世界大戦の期間に日本軍の兵士による性的奴隷制度の犠牲者として1992年に名のり出たとき、私は若い女性でした。
 数か月後に、日本から弁護士たちが来て、日本政府に対する訴訟を起こすために名のり出ていた他の年老いた女性たちから情報を集めました。 私は、日本の弁護士が彼女らに聞き取りをしたとき、私は祖母たちの物語を通訳するのを手伝いました。

 彼女らが暮らしているところから駐屯所の兵舎まで強制的に連れ去られたとき、彼女らの多くは、12才から16才であったと語りました。彼女らが誘拐されたまさにその日から、女性各々に10人から15人の兵士たちが行列をつくり、性的に彼女らを使用しました。こうして、彼女らは、繰り返し、数え切れない日々を同様な取り扱いを受け苦しみました。

 彼女らが1990年代初期の間にマスメディアに紹介され名のり出たとき、家族たちが、彼女たちをどのように拒絶したかについて、私たちに語りました。それは、性的暴行を受けた被害者たちが、社会的な不名誉の烙印に苦しんだことを示していました。
 彼女らが名のり出た時から、ほぼ20年が経ちました。しかし、この「ロラたち」はまだ正義を回復していません。

2)最高裁がフィリピン大学法学部教授たちを脅かす

 2010年11月23日は、日本兵たちが中央ルソン、パンパンガ州マパニケ村の彼女たちの家々を略奪し、『従軍慰安婦』として使うために「赤い家」に彼女らを連行した時から、66年になります。つい最近になって(2010年7月)、フィリピン最高裁判所は、「日本政府からの補償を求める彼女らの要求をフィリピン政府が支持すべきだ」という訴えを棄却しました。

 更に悪いことには、この判決文を出すのに、国際法的な法学者たちの論文を不正使用していながら更に、この不正使用を暴露したフィリピン大学の法学者たちを処分すると脅しているのです。

 それは、私たちフェミニストを憤慨させます。わが祖国の最高の裁判所がフィリピン大学法学部の教授たちを脅かしていることに、私たちフェミニストは激しく怒ります。教授たちは、性的な奴隷制度の女性犠牲者たちに代わって、真実のために声をあげただけなのです。

 最高裁判所は、性的な奴隷制度の犠牲者に正義を与えないことによって、その家父長的な姿を見せています。最高裁は「悪意のある意図の不存在」という理由で、判決を書いた側の論文盗用を正当化し、異議を唱える最高裁判事コンチータ・カルピオ・モラレスが「教授たちに対し、法的強制制裁をすべきだ。」と述べています。

 私は学界にこの重大な不正行為に抗議するよう要請します。そして、それは知的な不正の危険な先例を作ることになります。
 フィリピン大学法学部で議論されたように、私は他の女性グループに真実、理由と正義のために抗議行動をするよう呼びかけています。
 最後に、私は政府の行政機関、司法機関の組織ごとに、最高裁がどこで間違っているのかを取り上げ、性的奴隷制度の被害者の女性たちへの正義が守られるよう呼びかけます。

 アキーノ大統領は、第18回目のAPEC 経済指導者会議に出席するため日本を訪問します。
 われわれは、彼が断固として日本政府の代表者に「慰安婦」問題の解決を要求するよう期待します。

 ジーン・エンリケ: アジア・太平洋-強制連行に対する(CAT-AP)女性連合事務局長,ワールドマーチ全国事務局長 ケソン市教員住宅地区マギンハワ通り116

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フィリピンから、ロラを迎えての12・8集会 [フィリピン元「慰安婦」]

12月8日  戦争の加害と向き合う
武蔵野公会堂 19:00~21:40


フィリピンから、
リラ・ピリピーナ:ナルシサ・クラベリアさん                 
リラ・ピリピーナ コーディネイター:リッチー・エクストラマドゥーラさん

DSC_0031 会場の様子.JPG
  <会場の様子>

 1) 竹見智恵子さんの話

 フィリピンの戦時性暴力被害者たちの記録映像を撮っております。竹見です。
 フィリピンは、文字通り、太平洋戦争に巻き込まれました。12月8日、日本軍はパールハーバーだけを襲ったのではありません。マレーシアなどと同じく、フィリピンも同時に侵略を受けました。攻撃を受けたのはルソン島のクラーク基地です。当時のフィリピンは自治領と認められた米国の植民地でありました。日本政府はフィリピンに宣戦布告もなしに戦争をはじめたのです。この戦争でフィリピン市民110万人が犠牲になりました。

 戦争中、フィリピンの人たちは抵抗軍を組織します。フクバラハップなど抗日軍が存在しました。日本軍によるフィリピン支配、軍政が敷かれます。「英米支配からアジア解放」という言葉とは裏腹に、軍政はフィリピン人に対して苛烈であり、最重要課題を戦略物資の調達においていました。日本軍による支配は、フィリピン人の多くから支持されていませんでした。

 フィリピン女性に対する集団レイプは、住民の大虐殺と一緒に起きた場合が多いのです。慰安所でレイプされたケースもありますが、住民虐殺と一緒のレイプも多数見られます。ゲリラ討伐の名のもとに住民を抹殺し、財産を奪い、女たちをレイプしていくのです。あるいは、フィリピン女性を軍の駐屯地に監禁し、昼間は料理・掃除・洗濯をさせ、夜はレイプする、こういった例も大変多いのです。特別な事例ではありません。むしろ日本軍行った一般的な事例、支配パターンなのです。

 被害者たちは、自分たちの受けた被害であって自身は少しも悪くはないのに、「被害者が悪い」という世間の目、認識にさらされ、自分の受けた被害をずうっと隠して暮らしてきました。名のり出るまで時間がかかりました。90年代になって呼びかけと支える運動があって、やっと名のりでることができました。そんなに以前のことではありません。そのあとも何度も被害者同士で話し合い励まし合って、現在の被害者団体を組織することができたのです。このようなことはフィリピンに限らず、どこでもそういう傾向があります。

 私たちは、被害女性の体験、被害事実を知った後、被害そのものを日本の人たち、フィリピンや世界の人たち伝えることが大切だと考えました。被害者の一人、レメディアスさん、悲しいことにこの方はすでに亡くなってしまいましたが、このレメディアスさんが自身の体験を絵に描きました。私たちはそれを絵本にしました。またその絵を紙芝居にして、これを使ったワークショップ活動を始めました。もうすでに何年も行っています。ワークショップは、依頼があれば出張し行っております。

 レメディアスさんの書いた絵をたどって、先日現地を訪ねました。レイテ島ブラウエン市、エスペランサ村です。レメディアスさんは、日本軍によるエスペランサ村の掃討作戦で捕 まったあと、当時日本軍の司令部が置かれていたブラウエン中央小学校に連行され、しばらく樹に縛られていました。レメディアスさんが収容された小学校も、捕えられた時日本軍に縛りつけられた樹も残っていました。その後、さらに近くの飛行場の野戦病院に移されます。そこで1年以上にわたって監禁され、昼間は家政婦、夜は穴蔵のようなところに連れ込まれ、兵士たちからレイプされるという日々を過ごしました。(以上は絵本に絵かがれている通りです)
 ブラウエン中央小学校の校庭にあるしゃれたコッテジには、プリシラ・バルトニコさん(絵本には出て来ない)が監禁され、おそらく「司令官専用」として囲われていたものと思われます。ふたりともすでに亡くなられましたが、小学校の校庭のコテッジは今も現存し、プリシラさんが捕われていた部屋にはベッドがそのまま置かれていて、いまもなお保健室として使われていて衝撃を受けました。

 日本政府はいまだ公式に被害の事実を認め、謝罪をしておりません。賠償をしておりません。いまだ被害者の正義は回復しておりません。このような被害の実態、被害者の声を伝えることは、大変重要なことだと考えております。
 今回、記録映像を残そうとしましたのは、みなさんに広く被害の実情を知っていただきたいからです。記録映像はいまだ完成しておりません。完成は、来年の予定です。今日はその「予告編」を上映させていただきます。よろしくお願いします。

 2) 予告編 上映

 3) 被害者:ナルシサ・クラベリアさんの証言

 私の経験したことを話します。
 日本軍が突然、私たちの村にやってきました。私の父は村長をしていました。村に空き家がありました。日本軍兵士は、父に「この家族はどこへ行ったのか」と何度も聞きました。父は「どこに行ったかわからない、田んぼか魚とりに行っているのでしょう」と答えました。そのあと、日本軍は父を連れて、1時間ばかりその家族を捜しました。しかし、結局どこにいるかわかりませんでした。日本軍兵士はゲリラの一家と判断したようでした。そして、父がゲリラ一家をかばい、ウソを言っていると判断したのです。

DSC_0072 ○ナルシサ・クラベリア.JPG
   <ナルシサ・クラベリアさん>

 それから急に日本兵は父に、「家族は何人いるか」と尋ねました。父親は「8人いる」と答えました。日本兵は「その場に並べ」と命令しました。ひとりの姉がマニラに行って不在でした。そのためその場には7人しか並びませんでした。それで日本兵が急に怒りだしました。「おまえは嘘ばかり言う」と言って怒りだしました。

 そのあと、日本兵は父親に対して拷問を加え始めました。父親を縛って柱に縛りつけました。ナイフを取り出し父親の皮膚をはがし始めました。ナイフで切り刻みました。恐ろしい光景でした。私は当時13,4歳でしたが、その様子を一部始終ずっと見ていました。兄弟姉妹と一緒に観ていました。
 母親が叫び声をあげました。すると母親を日本兵がレイプし始めました。須田という名前であったことが分かりました。母親を助けようとしたのでしょう、小さい弟と妹が棒で日本兵を叩こうとしました。すると日本兵は「邪魔立てするな、小癪な」というふうに立ち上がって、その妹、弟を殺しました。そのあと、日本兵はわたしたち3姉妹に襲いかかってきました。そしてレイプされました。私はその時、腕を骨折しました。そのあとが今も残っています。

 そのあと、私たち3姉妹は、日本兵に捕まり、1キロか2キロ離れた日本軍の駐屯地に連れて行かれました。連れて行かれる途中で、父親の叫び声を聞きました。苦しむ父の最後の叫び声でした。また私たちの家が燃えているのが見えました。日本兵が火をつけたのです。父も小さい弟も妹も、母も殺され焼かれたのでしょう。

 それから、私たち3姉妹は駐屯地に連れて行かれました。姉二人はすぐさま駐屯地内に入れられましたが、日本兵は私を駐屯地前の民家に連れて行きました。骨折した腕を治療するためだと思います。民家の人はシップをしてくれました。しばらく私はその民家で治療をして過ごしました。

 その後、寺崎という日本兵が来て、水浴びをしろ、と命令しました。身体を洗っていませんでしたので臭かったのでしょう。水浴びして持参した服を着ると、寺崎が最初に私を民家でレイプしました。

 そのあと駐屯地に連れて行かれました。一人の姉を見つけました。あざだらけでした。やけどの跡も見えました。言うことを聞かないので叩かれたり、拷問されたりしたのでしょう。後でそのことを姉から聞きました。しかしその時は姉に声をかけられませんでした。フィリピン人たちだけで話すことは厳しく禁じられていました。あざややけどだらけの悲惨な姿を観てびっくりしましたが、詳しいことを聞くことができませんでした。非常に恐ろしかったことを覚えています。
 駐屯地に監禁された私たちフィリピンの女は、昼間は掃除や料理をさせられました。夜は、多くの日本兵にレイプされました。このレイプが嫌でなりませんでした。

 そんな生活をずっと続けていましたところ、女性の一人が駐屯地から逃げ出しました。すると日本兵はより厳しく監視するようになりました。
 その頃日本軍は、食糧を現地調達していました。現地のフィリピン人を襲い、食糧や財産を奪うのです。以前は日本兵だけが徴発に出かけていましたが、逃げた後は、私たち女たちもつれて徴発に行きました。その時のことは忘れられません。私は裸足で歩かされました。川を何度も渡りました。遅れたりすると馬用の鞭でたたかれました。足裏の皮がむけました。それでも歩き続けなければなりませんでした。そのため駐屯地に帰ったあとしばらく、私は歩けませんでした。
 私の姉・エメトリアと話す機会がありました。姉の話を聞きました。あなたはすぐに駐屯地に来なくてまだよかった。姉たちは連れてこられてすぐにレイプされました、何度も何度も。従わないとたたかれましたし、煮えたぎるイモをおしつけられやけどさせられました。そのように話しました。そのうち姉エメトリアはだんだんと精神がおかしくなって行きました。

DSC_0052 澤田・ナルシサ・リッチー.JPG

 以上のような被害をあたしは受けました。
 私はここにいらっしゃる日本のみなさんに訴えたいと思います。もし、皆さんの家族が私と同じ経験をしたらどのように受け取られるでしょうか。
 私ナルシサは幸運にも生き残りました。家族は殺されてしまいました。私だけが生き残った意味をよく考えます。私たちと私たちの受けた被害をみなさんに伝えるように、そしてこんな女たちが今後決して生まれないように、神様が望んでおられるのだと思います。ですから私は、証言を続けています。

 私たちは、第一に、日本政府がこの事実を認めること  第二に、謝罪すること  第三に、賠償することを求めています。
 被害者団体リラ・ピリピーナは174名いました。しかし64名がこの世を去っています。生きている限りこの闘いはやめません。みなさんの支援をお願いします。

 4)リラ・ピリピーナのコーディネイターであるリッチーさんの話
 みなさんこんばんは。
 はじめに、ここに集まりのみなさんに感謝いたします。私たちが訴えるこのような機会を持っていただいた、みなさんにお礼を述べたいと思います。三鷹のみなさん、実行委員会のみなさん、ありがとうございます。
 特に三鷹のみなさん、三鷹市議会で、日本政府に「慰安婦」問題の解決を求める意見書を採択していただきました。そのことに感謝し、評価しております。

DSC_0073 リッチー○.JPG
   <リッチー・エクストラマドゥーラさん>


 私たちリラ・ピリピーナという組織は、性奴隷被害を受けた被害者、支援者による組織です。過去の戦争被害の告発だけでなく、そればかりか、現代、発生している戦争による性暴力被害を告発してきましたし、告発し続けております。

 この18年間のわたしたちの闘いについて少し触れますと、はじめに日本の裁判所に賠償請求訴訟を提起しました。しかしこれは最高裁で棄却され、すでに敗訴させられました。まったく不当です。アメリカの連邦裁判所にも提起しましたが棄却されています。すでに司法による解決を求めることはできないことははっきりしています。
 国連の各委員会では私たちの被害を訴えてきております。各委員会では日本政府の責任を認めるべきであるという勧告をいくつも出しています。しかし日本政府はそれに一切答えておりません。
 フィリピンにおいてもロビー活動をしています。フィリピン国会に決議案を提出しています。また最近では、フィリピン最高裁に同じ被害者団体であるマラヤロラズが、フィリピン政府に対し「慰安婦」問題の解決のために日本政府に働きかけるように裁判を起こしました。しかしこれも2010年7月に棄却されました。

 最近私たちはアキノ大統領が訪日する機会(APEC)をとらえ、連続した抗議行動やキャンペーンを行いました。最高裁前に出向きましてマラヤロラズの提起した裁判支援に行きました。組織が違っても同じ被害者を救済するために、行動に行きました。
 先月11月8日、被害に対して謝罪と補償を求めるようフィリピン政府に求めるよう決議案を提出しました。その内容は、日本政府は、第一に、被害の事実を認め公式に謝罪すること、第二に、被害の事実を教科書に載せ広く知らしめること、第三に、賠償すること。この3項目を要求しています。
 私たちの要求をフィリピン政府が支持することを求める決議案です。今皆さんに見せているのが、決議案です。フィリピン政府が日本政府に働きかけるように要求しています。

 私たちは、アキノ大統領が訪日する前に、何度も抗議行動を行いました。マニラの大統領府前のメンディオーラ橋に集まって要請行動を行いました。ロラたちは高齢にもかかわらず参加しました。
 この行動が実りまして、アキノ大統領は訪日の前に声明を発しました。それはフィリピン政府が、被害者に補償を行うという内容でした。1952年にサンフランシスコ条約でフィリピン政府は日本政府に国家賠償請求権を放棄する、他方日本政府はフィリピン政府に対し賠償を行うとされています。アキノ大統領は、当時のフィリピン政府の決定を誤りであると認め、この「政府の誤りの責任」をアキノ政権が引き継ぎ、被害者に対して保障するというものです。しかしすでに今年度予算案は決定しているので、補正予算を組んで対応すると声明しています。この声明は、「画期的」なものですが、この先どのように実行されていくか、いまだ不透明です。被害者を中心とするフィリピン市民が、アキノ政権に対してより強く要求し続け実行させなければなりません。
 さらに、アキノ大統領は、ヌエル・ロペスという駐日大使を任じ、日本政府の謝罪を要求すると声明しています。

 これらのことは一つの前進です。他の国の被害者の闘いにも何らかの影響を及ぼすのではないでしょうか。 私たちはこれからフィリピンに戻り、これを声明だけに終わらせないで、実現するようにさせて行きたいと考えております。

 あと、リラ・ピリピーナが力を入れているのは歴史的な記録や資料を集め形に残すことです。2003年にはマニラのボニファシオ公園に「慰安婦」記念碑がたてられました。私たちは被害地に記念碑をつくっていきたいと考えております。国の研究所が認定すれば、国の費用で記念碑が立つ制度になっています。しかし研究所は費用がかかるという理由でなかなか調査が進みません。被害地そのものは、実際には日本の国会図書館でも、国連に出かければすぐに証明されます。しかし進んで調べようとはしません
 そういうこともあって、リラ・ピリピーナは、自分たちで組織のなかに歴史資料センターをつくりました。

 また、ロラたちが高齢で、みなさんの前で証言するのは今後ますます困難になっていきます。そのための映像や資料をつくろうとしています。
 これまで、国際的には「慰安婦」の支援する決議や国連の勧告が出ているものの、日本国内ではその動きが見えていませんでした。しかし、最近36の市町村で意見書が採択されています。これは日本での新しい動きです。そのような動きは多くの人々の努力や活動で実現しているのだと思います。その意義は大きいと思います。
 支援していただいていますが、これまで以上の、2倍3倍の支援をいただき、なんとか解決しなくてはなりません。わたしたちの正義が実現するようにしたいと思いますし、するべきだと考えております。仲間の一人ヴァージニアさんが言うには、私たちが声をあげてもそれに応えられなければ、非常にさみしい気持ちになります、でも将来の正義の回復のために実現しましょう。
 その正義は決してフィリピンの私たちの正義だけではありません、日本のみなさんの正義でもあると思うのです。人権の回復は世界の人々の希望です。

 5)司会: 山田久仁子さん
 ナルシサさん、リッチーさん、お話しありがとうございました。
 リッチーさんが言われましたが、「慰安婦」問題の解決は、フィリピンやその他国々の被害者の課題ではありません。ロラの話を聞いてよかった、云々ということではなく、私たち日本人の問題であること、日本人である私たちが日本政府に働きかけ日本政府を変えさせなくてはなりません。フィリピンの被害者の問題であるとともに、私たち日本人と日本社会の問題だと思うのです。私たちが日本政府の態度を変えさせるかどうかにかかっています。
 今後も記録映像が完成したら、上映運動を取り組みます。今後ともよろしくお願いします。

 5)アリソンさんの歌
 6)草柳さんのDV問題の紹介(省略)
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12月1日、被害者団体が日本大使館に申し入れ [フィリピン元「慰安婦」]

12月1日、戦時性暴力被害者団体が日本大使館に申し入れ行動

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   <12月1日、日本大使館前の抗議行動に参加した被害者たち>

 フィリピンの戦時性暴力被害者団体の一つであるマラヤロラズは、12月1日、在比日本大使館に申し入れ行動を行いました。

 日本大使館への抗議行動に参加したのは、マラヤロラズ(9人のロラが参加)、女性団体・カイサカアムネスティインターナショナル・フィリピン女性国際戦犯法廷のためのフィリピン連合などの団体です。

 以下は、カイサカ-Kaisaka(先進的女性同盟)のバロットさんから下記の報告がありました。
 1)日本軍のマパニケ襲撃・集団虐殺・集団レイプの日11月23日には、マパニケ村職員も参加した地域シンポジウムを行いました。
 2)11月22日にはフィリピン大学で、マパニケ村の戦争被害に関するシンポジウムを、ハリーロケ弁護士や知識人の参加で行いました。

101201 日本大使館前に集まり申入れ行動.JPG
   <申入れ行動に参加した支援の人たち>

101201 日本大使館前の抗議行動に参加する被害者のロラたち.JPG
   <日本大使館前の抗議行動に参加する被害者のロラたち>
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11月23日、マパニケ村で戦時性暴力被害シンポジウム [フィリピン元「慰安婦」]

11月23日、マパニケ村でシンポジウム

 フィリピン戦時性暴力被害者団体マラヤロラズが、11月23日に、被害地であるマパニケ村で地域シンポジウムを開きました。
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<シンポジウム閉会の挨拶をする マラヤロラズ代表 エリザベータ・ヴィヌヤさん>

 1944年11月28日は、フィリピンを侵略していた日本軍が、フィリピン・ルソン島中部、、パンパンガ州マパニケ村を襲撃し、村民を集団虐殺し、生き残った女性たちを集団レイプをした日です。

 2010年11月23日は、被害から66年目にあたります。

 この日本軍のマパニケ襲撃集団レイプ虐殺記念の日に、フィリピンの戦時性暴力被害者団体マラヤロラズと女性団体カイサカが、マパニケ村で被害の歴史的内容を明らかにし、いまだ公式謝罪と賠償をしていない日本政府を糾弾するシンポジウムを開きました。このシンポジウムにはマパニケ村の職員も参加しました。

 シンポジウムの前に、マラヤロラズ、カイサカ、シンポジウム参加者、マパニケ村職員は、マパニケ小学校内にある虐殺された村人の慰霊碑の前で慰霊を行いました。この慰霊碑の下に11月23日虐殺された村人の骨が一緒に葬られています。

 なお、被害者の一人であるテオドラ・ヘルナンデスさん85歳が12月4日に逝去されました。今年になって亡くなったマラヤロラズのメンバー(被害者)は、テオドラさんを含め4人となりました。
 公式謝罪と賠償が行われることなく、被害者がなくなり続けています。

101123 マパニケ小学校の慰霊碑前で.JPG
<マパニケ小学校の虐殺者慰霊碑の前にたつ戦時性暴力被害者のロラたち>

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<シンポジウムで自分たちの被害を歌で表現するロラたち>

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<シンポジウムの参加者たち>



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アキノ新大統領は、マパニケ犠牲者の立場を支持すべきだ [フィリピン元「慰安婦」]

 フィリピン パンパンガ州マパニケの日本軍による性暴力被害者団体、マラヤロラズが、六年まえに比最高裁判所に被害の救済を訴えた請求が棄却されました。
 マラヤロラズは、7月19日にフィリピン最高裁を訪れ、再度、動議と追加請求を行いました。紫色の衣装です。
 20日に記者会見をしたようです。おそろいの黄色の衣装です。
 下記の声明は、女性団体カイサカが、最高裁棄却にもかかわらず、アキノ新大統領に、被害者たちの要求を支持するように訴えています。以下を参照ください。
 マパニケは、1944年11月旧日本軍によって村民が虐殺された村の名前です。男たちは虐殺され、女たちはレイプされました。マラヤロラズはその被害者を中心とする団体です。

――――
カイサカ記者声明2010年7月20日

 アキノ新大統領は、マパニケ犠牲者の立場を支持すべきだ
 たとえ最高裁が判決文をどこかからか剽窃したとしても

20100719 最高裁へのfiling.JPG
<2010年7月19日、被害者団体マラヤロラズによる最高裁への請願行動>

 私たちは、5年間にわたるマラヤロラズ(元フィリピン慰安婦団体の一つ)の訴状を最高裁が棄却決定したことに失望しました。最高裁の棄却決定は、荘重な裁量権濫用と等しく、賠償のための犠牲者の請求支持を拒否するアロヨ政府のその当時の政策が有効と宣言するものです。これはフィリピン政府にとって、「別の政府(日本政府)による犯罪に対して市民を保護しない」とまさしく言っているようなものです。

 しかし、判決文の多くの箇所が、おばあさんたち(ロラ)たちに対して使われてきた「評判のいい」文書からのコピーからなるという弁護人の調査によって、わたしたちは二重の失望に包まれました。 ロラたちの事件は、戦争中に被った恐るべき暴力の集中的表現であって、正義と国際関係上での大問題です。それとともに国家主権や国家の尊厳に大きく影響する問題であって、まじめで慎重な、かつ誠実な検討に値する問題なのです。

20100720 マラヤロラズ代表Lola Lita 声明を読み上げる.JPG
<2010年7月20日、記者会見で声明を読み上げるマラヤロラズ・リタ代表>

 しかし、最高裁判所と著名な法律家たちが当惑しながら議論を続けこれが延々と長引きました。そのあいだにマパニケ犠牲者は、亡くなりつつあります。 陳情を提出した被害女性たちは、当初90名でしたが今では53名になってしまいました。

 レイプや性奴隷、女性に対する他の性的虐待、拷問、市民の大量殺人、略奪などを含む、戦争犯罪の責任が日本政府のあることを認めさせるという要求以前に、国民の利益を代表すると主張する政府は最高裁判所決定を待つ必要はないと、カイサカ(KAISA KA)は確信しています。
 就任演説で、人民こそが主人公であると言った新しい大統領は、ロラたちの上告に注意を向けるべきなのです。

 6つの異なる国民会議と議会が、「従軍慰安婦システム」に対する責任を認めるように日本政府に申し入れました。アキノ新大統領が、第二次世界大戦中のレイプの被害者、従軍慰安婦、殺された父や兄たちの被害に対して、日本政府に認めさせ公式に賠償させる初めての大統領となるならば、性奴隷とレイプの支持者として世界の尊敬を集めることができるでしょう。

2010100720 Malaya lolas記者会見.JPG
(2010年7月20日、記者会見場でに集まったマラヤロラズのメンバー>

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「ロラたちの“いま”」を映像に! [フィリピン元「慰安婦」]

「ロラたちの“いま”」を映像に!
――フィリピン・もと「慰安婦」のおばあさんたちの記録映像作りにカンパを――
                     フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩(ロラネット)

◎さぁ、今年こそは解決を

 鳩山政権が誕生してもっとも喜んだのは「慰安婦」とされたアジアの被害女性たちでした。今度こそ日本政府は正式な謝罪をし、平和なアジアを築く仲間になれるのでは、と。私たち「慰安婦」問題解決にとりくむ市民グループも同じ気持ちを抱きました。
 この4月には、政府が本腰を入れて取り組むよう全国のネットワーク「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動2010」ができました。
 「もう後がない、今こそ解決を!」とすでに2008年から地方の市議会決議で、日本政府に早期解決を求める意見書が提出・可決され、私たちロラネットも2009年6月に三鷹市議会で可決することができました(2010年5月現在、20の市議会が可決)。
 そして、09年8月には広く市民に知ってもらうよう<夏休み・親子で平和を考える――アジアで何があったの?―みて・きいて・お話しと「慰安婦」展>を開催しました。
 鳩山政権に「解決」を促すためには、国会議員のがんばりとともに、それを下から支える草の根レベルの盛り上がりが必要です。パネル展はその第一歩でした。

◎日本人が「慰安婦」と間近に接するには

 そして、ロラネットは「慰安婦」パネル展に続き、この度、記録映像づくりに取り組むことになりました。各国被害女性たちの記録に比べ、フィリピンの場合にはまとまった記録がまだありません。長い沈黙を破って名乗り出た被害女性たちが尊厳回復のため20年に及ぶ歳月をどのように闘ってきたか、高齢となった現在もなお、女性が二度と同じつらい思い抱かない為に戦争反対の声をあげ続けている姿を映像として残すプロジェクトです(残された時間は多くありません)。この映像を見た市民は、「慰安婦」とされた女性たちと間近に接することができ、自分たち一人一人に解決する責任があることをきっと感じることでしょう。

◎今年度中に記録映像の作成を

 制作は、フリージャーナリストやカメラマンたちが、フィリピン現地の市民団体の協力を得て、被害女性たちを取材し、今年度中(2011年3月)の完成をめざしています。
 費用は少なくとも300万円はかかります。うち100万円は趣旨に理解をいただいたACT(公益信託アジア・コミュニティ・トラスト)からの助成が決定しています。100万円は関係者の自己負担・寄付で都合をつけ、残りの100万円を広くみなさまにご協力と募金をお願いする次第です。
 ぜひともご協力のほど、よろしくお願いいたします。(2010年5月)

◎「ロラたちの“いま”」を記録映像に!制作費用募金のお願い
 目標金額:100万円以上

 募金期間:2010年5月~2011年3月 
 口座振込み先: 
 ①郵便振替00110-1-370322、名義:ロラネット、  または、
 ②みずほ銀行三鷹支店: 普通口座 1609040、名義:フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩
 振込みに際しては、氏名・連絡先を記していただけるようお願いいたします。

 なお同時に、趣旨に賛同される呼びかけ人・団体を募っています。下記まで連絡ください。
    連絡先:フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩
    Tel:0422-34-5498  E-mail: hachinoko@ba2.so-net.ne.jp

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マラヤロラズの声明 [フィリピン元「慰安婦」]

 フィリピンの戦時性暴力被害者団体の一つ、マラヤ・ロラズが声明を出しました。以下、紹介します。
080814 マラヤロラズの集会 左から ロラリタ、ロラキナン、ロラピラール.jpg

 「慰安婦」問題に対する米国、カナダオランダ尚殿各国からの非難決議が相次いでいます。民間による「アジア女性基金」では解決しないことは明らかになりました。日本政府が正式に謝罪し補償する以外にありません。
 しかし、日本政府はこれまで公式に謝罪し補償する態度をとっていません。各国被害者からの裁判に対しても、日本の司法は「当時国家賠償の法がなかった、時効である」ことをもって退けています。
 したがって、被害者に謝罪し補償する新たな立法による以外に解決する方法はありません。
 これまで参議院において、民主党・共産党・社民党三党によって被害者に謝罪し補償する新立法の共同提案が何度かされてきましたが、廃案になっています。
この新法案では、謝罪・補償対象として「慰安婦」を「一定期間拘束され性暴力被害を受けた者」と規定しています。マラヤ・ロラズに結集する被害者は、日本軍の作戦中にマパニケ村や接収し駐屯していた地主の屋敷「バハイナプラ」(赤い家)で、1944年11月23日、被害を受けました。慰安所ではありませんし、被害はこの一日です。マラヤ・ロラズは、法案に記載されている「慰安婦」の規定に入らない恐れがあることを指摘し、自分たちも謝罪と補償の対象とされるべきであると主張しています。これが声明の主な内容です。
 このような声明、主張は当然であると判断し、ここに紹介します。


日本の国会議員の皆さまへの声明
フィリピン・パンパンガ州カンダバ町マパニケ村における旧日本軍による集団レイプの被害者について

 私たちは「マラヤ・ロラズ(Malaya Lolas)」のメンバーです。「マラヤ・ロラズ」は、フィリピン・パンパンガ州カンダバ町マパニケ村において、旧日本帝国陸軍の兵士たちにより集団レイプ被害を受けた生存者たちの組織です。私たちの痛ましいできごと、集団レイプは、1944年11月23日、起こりました。日本軍により完全に計画的になされた私たちの村への攻撃のなかで起きたのです。

 現在、私たち被害者61名は高齢で病気がちです、すでに約100人の仲間たちは他界しています。私たちは人生のたそがれを迎えており、正義を与えられないままこの世を去ることは、私たちにとって耐え難い苦痛です。

 日本政府が歴史的責任を取ること、「慰安婦」制度について戦争犯罪として公式に謝罪すること、日本の歴史教科書でこのことについて言及すること、そして被害者たちに賠償することを求めるといった内容を持つ法案を、幾人かの国会議員の皆さまが何度も提出してくださっていることを私たちはすでに知っています。

 日本の国会で立法案が通過していないことを遺憾に思います。とともに、その法案に私たちの被害例は含まれてはいないことを重ねて遺憾に思います。

 私たちの被害事例が、日本の「慰安婦」の定義から除外されていることを私たちは知っています。「慰安婦」とはどういうものかを定義する日本の歴史的、社会的状況について、私たちは議論することができません。しかし私たちは国会議員の皆さまに申し上げたいのです。日本兵が私たちを慰安所に連れて行かなかったからといって、私たちの苦しみは決して軽んじられるべきものではありません。

 私たちは言葉にできないほどおぞましく恐ろしい経験をしました。日本の兵士が私たちをレイプする前に、彼らがどのように私たちの父、祖父、おじ、兄弟たちを捕まえ、拷問を加えたのか目撃しました。私たちの親戚の男性たちが日本兵にどのように殴りつけられたか、また彼らが蟻に刺されるようにするためにどのように柱や木々に縛りつけられたか、その後、どのように彼らは男性器を切断され、自分たちの口に詰め込まれていったか、 私たちはすべて目撃しました。私たちの家や財産が焼かれていく光景や、私たちの親戚たちの死体や骨が焼かれる匂いも決して忘れることができません。日本兵たちは、私たちの財産を奪い、それらを私たち自身に彼らの駐屯地まで運ばせました。そして私たちの何人かは他の人たちが見ている前で、レイプされました。しかもそのレイプは何度も何度も続きました。

 当時、起きたことをさらに説明するために、2000年12月に開かれた女性国際戦犯法廷の判決文の一部を次に添付しておきます。

 「慰安婦」として認定されている女性たちと同様に、私たちは正義の名のもとに扱われるべき存在であると信じております。

 したがって、この問題に関心を持つ国会議員の皆さまが、旧日本帝国軍による性暴力のすべての被害者に対して正義を与えるという法律を制定してくださいますよう、私たちは切に願っております。

マラヤロラズ

代理者を通じて

2008年7月15日


添付資料

2000年12月、女性国際戦犯法廷の判決文の一部

日本帝国陸軍兵士によるフィリピンの女性たちに対する犯罪についての女性国際戦犯法廷の所見

 “証拠によると、1944年11月23日に日本兵がマパニケ村を強襲し、同村に砲撃を加え、家々を略奪して放火し、また、男性たちを人前で拷問して殺しながら、完全破壊作戦の一部としておよそ100人の女性を組織的にレイプしたことは明らかである。また、証拠によると、日本軍はマパニケ村に対して計画的な懲罰および征服作戦として村の少女や女性たちに対する性暴力を作戦に組み入れたのである。兵士たちは若い女性や10代の少女を見つけ次第、レイプした。より年老いた女性たちも多くが同様にレイプされた。

 “証言した女性たちに対するレイプは、男性を女性と分けて、男性たちをまず拷問して殺し、女性たちに荷物を持たせて「赤い家」に連行し、そこでレイプして彼女たちを放棄したという作戦のパターンを踏襲している。多くの女性は「赤い家」に向かう途中や自分たちの家の中でレイプされている。おおくの場合、犯罪者たちによって輪姦されたり、他の女性たちの眼前で長時間にわたってレイプされてもいる。この犯罪パターンはレイプが作戦もしくは計画の一部であることを示している。また、攻撃者はそこで階級性を示しており、軍幹部は家屋を使ってレイプする一方、一般兵士たちは周りのテント周辺で女性たちをレイプしており、これなども組織的にレイプしたことの証拠となる。

 “レイプは広範囲に組織的に行われ、武装紛争中に民間人に対して加えられた。訴状にある第3訴因に挙がっている行為は、レイプの人道に対する罪を構成する法的要因を満足するものである。よって当法廷はマパニケ村におけるレイプは人道に対する罪を構成するとの所見にいたった。

 “最後に当該ケースにおける具体的事実と法律に照らして、当裁判官は、これは一般起訴にあるもののようには告発されていないものの、マパニケ村の女性たちを繰り返しレイプする目的のために「赤い家」で女性たちを監禁したことはいくつかのケースで性奴隷とみなせる。日本兵は駐屯地として使用していた敷地内や部屋で彼女たちを監禁した。また、彼らはある女性を2日間にわたって監禁している。多くの女性たちが何度もレイプされ、いつ再びレイプさるのか、いつ自由の身になるのかわからなかった。当法廷に提出された性奴隷被害に関する証言は、フィリピンにおける性奴隷のための施設は、当時、大抵が軍の駐屯地であり、兵士たちがしばしば、軍事作戦の最中に、女性や少女をレイプ目的で誘拐したこと、を明らかにしている。これらの事実は、「慰安所」のような公式な施設以外でのレイプや性奴隷も、日本軍の作戦のよく知られた一部であったことを呈示している。事実、日本の政府や軍部によって制度化されたレイプや性奴隷の公式なシステムが、慰安所以外で犯されたレイプや性奴隷を暗黙のうちに承認していたといえる。

- 日本軍による性奴隷に関する女性国際戦犯法廷、判決文、オランダ・ハーグ、2001年12月4日、665-668.ページ


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2007ピースサイクルの報告 [フィリピン元「慰安婦」]

2007ピースサイクルの報告

<3月3日、現地サイクリストと共に、「赤い家」の前で>

 2007ピースサイクルは、3月1日から9日までフィリピン・ルソン島中央部、マニラ→マパニケ→アラヤット→クラーク→オロンガポのコースを走りました。部分参加も含めて日本人9名が参加し、各行程には多数の現地サイクリストが参加してくれました。毎年参加してくれるサイクリストもいます。
 元「慰安婦」のロラたちを訪問しました。マパニケはすでに何度も訪れ故郷のようです。アラヤットでは多くのおばあさんが町民会館に集まってくれていました。ケソンのロラズハウスも訪れました。ちょうど3月1日「慰安婦を強制連行した証拠はない」という安倍発言があり、ロラたちは怒っていました。「われわれが証拠そのものである」と皆声をそろえて安倍発言と日本政府を告発しました。
 3月8日には国際婦人デーのデモにも参加し、スービックレイプ事件を告発し続けているタクスフォーススービックレイプの人たちと交流しました。現代の「慰安婦」であると指摘していました。まったくその通りです。
 また不平等条約である日比経済連携協定(JPEPA)締結がフィリピンでは大きな問題になっていました。日本による「第二の侵略」であるとフォーラムで報告されました。
 2007ピースサイクルの課題は、私たちが日本へ帰ってから引き続き取り組まなければならない課題でもあります。今年のピースサイクルは、テーマからしても日比共通の課題を掲げ、日本での運動とフィリピンでの運動がより一体になったと感じました。
 いろんな団体を訪問し、意見交換できました。2007ピースサイクルを成功裏に終えることができたのは、現地受け入れ団体であるKPD,カイサカによる事前の準備によるところが大きく、感謝しています。
 なお、報告集も準備中です。(文責:平田)


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ロラズハウスを訪問して [フィリピン元「慰安婦」]

ロラネット山田さんからロラズハウス訪問の原稿をいただきました。転載します。
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ロラズハウスを訪問して

<3月7日、ロラたちととダンスを楽しむ>

 マニラのケソン市郊外にあるリラピリピーナの事務所を訪れるのは三~四年ぶりです。以前には事務所の一角がカンティーンといって簡易食堂があり、つき当りの壁にはプリシラ・バルトニコさんの絵が、また昔の「慰安所」の地図や年表などのパネルが置かれていました。
 今回はちょうどそこがリサイクルコーナーの展示場となり、日本からの古着が並べられ、手作りアクセサリーもたくさんで、ちょっと趣きがかわっていました。ロラたちはにこやかに私たちを出迎えてくれました。
 今回私はピナットの支援・交流先のスービックから帰って、ピースサイクルのみなさんとマニラで合流して、共に訪れました。
 3月1日に安倍首相の発言がアジア各国に大きな波紋を広げ、フィリピンでは連日、ロラたちが日本大使館に抗議に出かけていました。
 「わずか15歳で売春をしたとでも言うのか!」、「元「慰安婦」たちは強制された証拠はない」という安倍発言にこのように激しく怒り、3月7日に私たちが訪れたときは、「安倍首相をフィリピンにつれてきてほしい!私が証言する」と自己紹介のおりに立ち上がって叫ぶロラもいました。
 連日の行動で疲れもあり、また以前来日したときのロラたちと今回とでは、年月の重なりを深く感じさせるほど一層、年老いた方もいました。それなのに、こんなパワフルに動いている、「あなたたちも日本できちんとやるのよ!」と後押しされたように思いました。
 今回の訪問目的は、新しいロラズハウスをマニラ近郊で捜す物件の進行状況をみることでした。が、連日の安倍発言で、事務局のリッチーさんをはじめロラたちも多忙をきわめ、その日程もとれず、これまでにめぼしい物件も見つかっておらず、ひき続き捜すこととなりました。
 カラオケに合わせてピースサイクルメンバーとダンスを踊るロラたち、一体あと何年こんなふうにできるのだろうか、日本でもがんばらなければと思いを深くして帰国しました。


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「生きているうちに、正義を!」 フィリピン元「慰安婦」を救え! [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピンの女性団体カイサカから、8月9日のフィリピン元「慰安婦」被害者救援、世界同時行動に際して「声明」が送られてきましたので翻訳し、転載します。
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女性団体カイサカ、新聞発表2006年8月9日
バージー・スアレス・ピンラック弁護士、カイサカ・スポークスパーソン
ピンラック弁護士

「生きているうちに、正義を!」

戦闘的な女性たちが第2次世界大戦の「慰安婦」の正義の叫びに加わる。

元「慰安婦」救済の訴えの10周年記念と一致するこの日に、私たちは協同した行動をとっているが、これはアジアじゅうの元「慰安婦」の叫び声である。

アジアの200,000人を超える女性たちが、1940年から1945年まで続いた日本帝国主義の帝国主義戦争の犠牲者である。組織的なレイプ、何千人ものアジア女性の虐待。これら女性と子供ら非戦闘員への攻撃は、「敵を弱め、辱める」第2次世界大戦における日本の戦争戦略の一部として行われた。

もちろんのこと、レイプや虐待被害女性のうちほんの少数の人は、話す勇気を持っていたけれども、これらの勇敢な人たちは、正義を実現する前に亡くなりつつある。
名乗り出た女性たち、フィリピン元「慰安婦」団体・マラヤロラズのロラ(おばあさん)たちのうち、すでに28人以上が亡くなり、半数近くの人たちは病いのため、手助けなしにはほとんど行動することができない。

第二次世界大戦が終わり61年たったが、日本政府は「慰安婦」に対する責任をいまだ認めていないし、まして自らが関与したその残虐行為を受けた人たちの正義回復のために、何の手立てもとろうとしていない。
そして今や、日本政府は、必要な時に他国の領土を侵略することができるように、憲法の平和条項の修正と、自衛隊の再編によって、再び攻撃的、侵略的姿勢をとろうとする徴候を見せている。

同時に、日本の次世代の人々は、「慰安婦」問題や第2次世界大戦での他の残虐行為などの歴史を知らずに育ってきた。

そのことが私たちを慎重にさせ、戦争志向の日本の復活を許せなくさせているのだ。

破壊された遺骸と壊された命で満たされた苦い過去を、繰り返さないようにしよう。

私たちは、元「慰安婦」の正義回復を望む!
私たちは、侵略戦争の犠牲者の正義回復を望む!


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フィリピンの「慰安婦」アモニタ・バラハディアさん(78歳)、逝去 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピンの「慰安婦」の代表的存在でしたアモニタ・バラハディアさん(78歳、愛称=アポ・イタン)が11月1日11時食道癌のため、パンパンガ州サンフェルナンドの自宅で逝去されました。
 1992年10月にフィリピンで初めて名乗り出た4人の1人で(ロサ・ヘンソン、バリサリサさんに続き3人目、残っておられるのはアンスタシア・コルテスさんだけ)、被害者団体のリラ・ピリピーナ初代代表、ロラズ・カンパニエーラの代表などをつとめ、日本、韓国、北朝鮮、中国、インド、スイス、南アフリカ、オーストラリア、米国なども訪れ、会議やセミナーなどで体験を証言するなど、フィリピンの被害の代表的存在でした。今年3月から闘病生活を続けておられ、私も8月3日に自宅までお見舞いに行ってきましたが、残念です。もっとも広く世界を歩いた被害者ではないかと思います。

ネリア・サンチョさん(アジア女性人権評議会、ロラズ・カンパニエーラ・コーディネーター)の連絡から:


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フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日広島 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日 広島

皆さんこんにちは。
わたしはイザベリータ・ビヌヤと申します。フィリピンはパンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやって来ました。今年73歳になります。
わたしは第二次世界大戦中に旧日本軍によって性奴隷にされた被害者たちの団体、「マラヤロラズ」の代表をしています。「マラヤ」とはタガログ語で「自由」、「ロラ」は「おばあさん」を意味します。
このたびはわたしたちを日本へ招聘くださった団体の皆さん、ありがとうございました。このような機会をもち皆さんにお話できることをうれしく思います。
わたしたちが日本にやってきたのは、ぜひ皆さんに第二次世界大戦中に日本軍によって受けたわたしたちの被害についてお話するためです。

1944年11月23日未明のことでした。日本軍は私たちのマパニケ村を激しく爆撃してきました。爆撃は午前5時から6時ごろまで続きました。日本軍はマパニケ村の隣にあるブラカン州サニルデフォンソからわれわれの村を砲撃したのでした。
爆撃が始まり突然四方で爆弾が破裂する音でわたし目覚めました。日本軍による爆撃でした。わたしは思わず家の床下に逃げ込みました。できればこの爆撃から逃れようと必死でした。爆撃は無差別で、人であれ動物であれ、多くの者を一瞬にして殺してしまいました。
午前6時ごろ爆撃がおさまりますと、そこで日本兵の大声を聞きました。多くの日本兵が村にトラックなどで直接乗り込んできました。兵は600名であったことが後でわかりました。まず日本兵は村にやって来るなり、村の家々を取り囲んでしまい、「ダラケ、ダラケ、ゲリラ」と叫びました。ダラケとは男のことです。男たちを外に出させました。どうやら日本兵は男たちをゲリラとみなし捜しているようでした。

男たちを狩りあつめますとそのまま手を縄で縛り、村の中心部にあった小学校へ連れて行きました。男たちをそれぞれ樹に縛りつけると訊問と拷問をはじめました。そして男たちが拷問を受けている間、日本兵は家々を探し回り家財を奪い、わたしたち女に小学校の別の一角に運ばせました。集められた家財、財産は山と積まれる状態になっていました。それから日本兵は村の家々に火を放ち焼きはじめました。
日本兵はやはり女と子供を狩りあつめ、小学校の校門の前に立たせました。村の男たちがどのような拷問を受けているか目撃させるようにしました。日本兵は目の前でわたしたちの父、夫、兄を痛めつけ苦しめました。

ある者は口に火のついたタバコをなげいれられ苦しめられました。ある者は銃剣で腹を裂かれ、内臓を取り出されていました。ある男の人は自分の性器を切り取られ刻まれ口に押し込められ、無理やりに食べさせられました。わたしたちの仲間であるロラ・アタンさんのお父さんもみなの見ている前で性器を切り取られ口にくわえさせられた一人です。ある者は銃剣で刺し殺されました。それから日本兵は男たちをマシンガンで撃って皆殺しにしました。そのようにして殺された男たちの遺体をまとめて小学校校舎に押し込みますと、校舎に火を放ち、校舎ごと焼き払いました。
これらはすべてわたしたちの目の前で行われました。わたしたちは絶望にくれ、みんな泣いていました。これはまるでわたしたちが悪いことをしたので罰を与えるかと言わんばかりの行為でした。わたしたちはどうしていいかわからず、ただ日本兵の指示に従いました。

村の家々や校舎を焼き払ったと、日本兵は残された女や子供たちに、家財を運ぶように命じました。村から離れたブラカン州デルフォンソにあるバナイプラ(「赤い家」)という地主の屋敷に運ぶように命じました。バナイプラはこの地方の地主の屋敷で当時日本軍は駐屯地として使用していました。
日本兵はわたしたちを屋敷に連行する間、かなり長い距離を歩かせました。このあたりは水田とクリークが広がる地域です。日本兵に監視されておりもちろん逃げることはできません。わたしたちが小川や沼地に足をとられ倒れますと、彼らはわたしたちを蹴り上げ、平手打ちしたり銃座で殴ったりして、無理やりに歩かせました。
わたしたちはそのまま連行されて「赤い家」に連れて行かれました。すでに夕暮れ近くになっていたと思います。日本兵はわたしたちに家財を屋敷の前に置くように命じました。このとき荷物を運ばせるために捕まえてきた村外のフィリピン人男たちとわたしたちを分け、男たちを帰しました。わたしたちもやっと帰れると思いましたが、そうではありませんでした。日本兵は女たちを屋敷や家の中に連れ込み、それからわたしたちの身の上に耐え難い屈辱を加え始めたのです。
わたしは三人の日本兵に手足をつかまれ無理やりに「赤い家」の二階に連れて行かれました。二階にはいくつか部屋がありますが、そのうちの一部屋に連れて行かれると、すでにそこには4人の少女が押し込められていました。そこへわたしも押し込められました。部屋の前には2名の日本兵が立って監視していました。

広島・平和公園で

わたしは日本兵に対し、泣き叫びながら「どうか家に帰して欲しい」、家は焼かれていましたので「親戚のうちに返して欲しい」と泣き叫びました。部屋の隅では他の少女たちも泣いていました。しかし日本兵はわたしたちの願いを聞き入れてくれませんでした。
しばらくするとわたしを連行した三人の日本兵、さらに二人の日本兵が加わって、5人になりました。彼らはまずわたしたちの目の前で食事を始めました。それが終わるとタバコをすい始めました。吸い終わると軍服を脱ぎ始めました。

そのときはすでに日も暮れており、部屋にはランプが一つありました。そのランプを消したのが合図でした。いきなり日本兵はわたしたちに襲いかかりました。兵士たちはそれぞれ少女を連れて部屋の隅に散り散りなり場所を確保すると、各自少女に対してレイプを始めました。
わたしたちは大きな声を上げ、足をばたつかせて抵抗しましたが、彼らは聞きいれてくれませんでした。わたしはそのとき14歳でしたので性交渉の経験はありませんでした。レイプされたとき大変恐ろしく手足をばたつかせて思いっきり抵抗しました。わたしをつかまえた日本兵は、抵抗すると腹部を思いっきり蹴りました。足や太ももをひどく殴りました。わたしはたまらず彼らの暴力に屈して、一枚ずつ衣服をはがされ、彼らによってレイプされました。わたしは人間としての尊厳を著しく傷つけられました。守ろうとしたものが暴力によって奪われました。その一晩、日本兵たちによってレイプが続けられました。彼らはわたしたちを人間ではなく動物のように扱いました。
他の女性たちも同様でした。泣き叫ぶ声が聞こえました。これは屈辱的な出来事でしたが、わたしたちはこのようにしてその夜をすごしたのです。

彼らは食べ物も水一滴も与えてくれませんでした。朝から何も口にしていませんでしたから空腹を感じていました。もっとも飢え渇きよりも、そのときはこのまま殺して欲しいと思っていました。わたしの屈辱は、空腹と渇きとともに鮮明な記憶として残っています。
翌朝、日本兵によってわたしたちは釈放されました。日本兵は「帰れ」と手のしぐさで示しました。しかし、わたしはどこへ帰ったらよかったのでしょうか。この時、わたしは絶望しほとんど放心した状態でした。

すでにその時、わたしたちの村、マパニケは焼きつくされ、人っ子一人いない灰だけが残る村になっていたのです。わたしは極限状態にありました。強烈な飢えと渇きが襲ってきました。また日本兵に乱暴された身体を突き抜けるような強い痛みがありました。
わたしは「赤い家」から少しでも離れようとしました。結局自分の家の跡を目指して歩いたのですが、非常に苦労しました。何度も立ち止まり座り込み、泣いていました。
どこへ帰ったらいいのか、家はもう焼き払われていましたので、目的もなくさまよい歩いていました。食べ物はありませんでした。収穫も日本兵が奪っていましたから、これから何を食べていこうか考えさせられました。

わたしは結局、村の近くにあった森の中に避難することにしました。日本兵に再度見つかることを恐れたのです。そこで五日間、日本兵を避けるようにじっとしていました。近くの小川で渇きを癒しました。食べ物はほとんど食べていません。
その間、わたしは知り合いに出会いました。彼によるとわたしの父と兄は、日本兵によってサンミゲルというブラカン州の隣町ですが、日本軍の駐屯地に連行されたということを知りました。
わたしはその駐屯地に行き、父と兄に再会しました。生きていたのです。しかし激しい拷問を受けていました。

父は体中を殴られ、また縄で強く縛られた傷で身動きできませんでした。それ以上に、顔に服をかぶせて少しずつ水をたらす拷問、水攻めと言うのでしょうか、これを受けていましたので、肺に水がたまり非常に苦しそうでした。父は釈放されましたが、その後、肺に水がたまる病気になり回復しませんでした。父はしばらく生きていましたが、戦後すぐに肺に水がたまったまま苦しみ続けて、亡くなりました。
兄もまた身体を殴りつけられ、神経が麻痺していましたし、肩が陥没していました。顔をひどく殴られ、歯はほとんどが折れてなくなっていました。肩の筋肉が障害を受け不自由な身体になりました。

わたしの経験したこの受難を、わたしは決して忘れることはありません。日本兵はわたしたちマパニケ村の男たちを傷めつくし殺しつくしました。そして女たちを辱めました。この痛みは口であらわしつくすことができません。今も胸が痛みます。
わたしはこの受難を被害に対する正義を回復するために名乗りでました。何も言わず、証言などせずに死んでいった父や兄、マパニケのすべての男たちや女たちの無念を思ったからです。日本政府に対する怒りは弱まるものではありません。現在もなお、日本政府に対する怒りを抱いて生きています。


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フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言8月3日 
三鷹・ロラ交流会での証言

わたしはセフェリナ・トウラです。皆はキナンと呼びます。ロラ・リタと同じ、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやってきました。わたしが日本軍による攻撃と被害を受けたのは、1944年11月23日のことでした。当時わたしは15歳でした。わたしの体験は次のようなものです。
11月23日未明の爆撃が始まりますと、わたしは家族と一緒に、いち早く家近くの小川に逃げました。そして爆撃がやみますと、ようやくわたしたちは小川から家のあったところを目指しました。というのは、祖母と姉二人を残して逃げたからです。家のあった跡に戻ってみますと、わたしたちは非常な衝撃を受けました。祖母は爆撃の直撃をうけ、すでに単なる肉片に変わっていました。姉二人も直撃を受け、すでに人の形を残していませんでした。わたしと母は無事でしたが、そのような状況を前にして、わたしたち家族は大変なショックを受け、また嘆き悲しみました。
そうしているところに日本兵がやってきました。母とわたしは肉片に近い遺体となった祖母と姉の前にたたずみ嘆き悲しんでいました。わたしたちはその場を去りたくなかったのでしたが、日本兵はわたしたちを見つけると腕をつかみ、そのまま近くの小学校に無理やりに連行していきました。
小学校では集められた男たちが拷問を受けていました。殺された男たちは小学校に押し込められ、校舎とともに焼かれました。
そのあとわたしと母はそのまま「赤い家」に連れて行かれました。連れて行かれると、わたしと母は同じ部屋で複数の日本兵に同時にレイプされたのでした。わたしたちは叫び声をあげ、助けを求めましたが、日本兵はそのままかまわずレイプし続けました。母とわたしをレイプしたのは三人の日本兵です。
 フィリピン パンパンガ州「赤い家」

わたしは当時まだ15歳ということもあり、日本兵にレイプされると体中が血まみれになってしまいました。その姿に自身で驚き、母に助けを求めました。「母さん、こんなに血まみれになった」と。泣いて助けを求めますと、母はわたしの姿をみて非常に驚き、周りの日本兵に「わたしの娘はこんなふうになってしまった」と大声を上げて叫び続けました。
大変長い、そしてつらい一日でした。今でも鮮明に覚えています。忘れることができません。
翌朝、わたしと母は二人でその場を抜け出し脱出することができました。すぐに家には戻らず近くの森に逃げ込みました。家に帰れば再び日本兵に見つけられると思ったからです。そこで三日間とどまり、日本兵の追及を逃れ隠れていました。三日後ようやく母とわたしは、家のあった場所に戻りました。
祖母の遺体は肉片なっていましたが、姉二人の遺体は残っているだろうと思い、せめて遺体をきちんと埋葬しようとしたのです。しかし、遺体らしきものは残っていませんでした。その時わかったのですが、当時村には野犬が多くおり、姉や祖母の遺体は野犬に食べられてしまったのです。わたしたちはこのことに非常なショック受けたのでした。当時のわたしの気持ちを想像していただけるでしょうか。

わたしは当時のことを思い出すと、今でも大変苦しい気持ちになりますので、普段話しをすることはほとんどありません。しかし、今回は皆さんに本当のこと、事実を知っていただきたいと思い、何とかがんばって話しました。
わたしたちは戦争による被害のせいで、戦後も生きていくこと自体が非常に困難でした。15歳で家族と家を焼かれました。生きていくのが精一杯でした。十分な教育を受けることはできませんでした。満足に字もかけないような少女時代を過ごしました。しかし、わたしに証言は決してうそではありません。本当のことです。皆さんにぜひ知っていただきたい。そして被害をうけたマパニケの女たちがいた事実を記憶と記録にとどめて欲しいのです。わたしたちの正義を回復する闘いに、ぜひ皆さんの理解と支援をお願いしたいのです。そういう思いで証言させていただきました。


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フィリピン戦時性暴力被害者団体 マラヤロラズからロラ・リタ代表の訴え [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン戦時性暴力被害者団体 マラヤロラズからロラ・リタ代表の訴え

マパニケの被害からすでに60年がたちましたが、わたしたちはできごとを決して忘れることはできません。日本兵によって1944年11月23日のわたしたちの受難に対する記憶は決して消え去るものではないのです。あの戦争は多くのわたしたち同胞、国民を犠牲にしました。受難に対する記憶は、犠牲を強いた日本政府を告発し闘う原動力であり、わたしたちマラヤロラズの共通の気持ちです。

わたしたちは要求しています。
日本政府は、当時行った加害の事実一つ一つを認知すべきです。わたしたちの身の上におきた不幸が忘れ去られ、マパニケの被害が歴史から消し去られることに耐えられません。
日本政府は加害事実を認知した上で、被害者一人ひとりに誠実に謝罪すべきです。公式に謝罪すべきです。そのことを通じてはじめて、わたしたちの正義が回復されるのです。

戦時中の殺掠とレイプは単に偶然のできごとではありません。ここからわたしたちのすべての苦しみが発しています。生きるつらさ、生計を立てること、つらい少女時代、これらすべてに対してそのまま影響を与えてきました。

2000年12月「女性国際戦犯法廷」は、日本政府の加害事実を認定し日本政府の責任を明確にした判決を出しました。判決は日本政府が果たすべき責任と課題を明確に指し示しています。しかし、日本政府は今に至るまで何の責任も果たしていません。わたしたちの正義の回復はいまだ実現していません。
そしてもう一つ、皆さんに訴えたいことがあります。それは「アジア女性基金」です。これは日本の民間の寄付を基にし、一部日本政府も基金を出していますが、わたしたちは「アジア女性基金」では決して解決しないと考えています。というのは「アジア女性基金」日本政府の法的責任を認めていないからです。認めないことを前提にしたあくまで道義的な基金だからです。したがってわたしたちはその受け取りを拒否し続けています。

日本政府は直接わたしたち被害者に対して正式に謝罪し、法律を通して補償すべきです。そのことがなされない限り、またマパニケの女たちの被害をまたどこかで引き起こすでありましょう。世界中の女たちがわたしたちと同じ運命をたどることになります。つまり戦争がまた繰り返されることになります。わたしたちの被害事実を公的に明らかにし、公的に謝罪することは、平和な、人権侵害を許さない未来の保障でもあるのです。
わたしたちの仲間はますます高齢化がすすみ、病気がちになっています。すでに多くのものが亡くなりました。わたしたちロラの多くは自分たちだけで自活できない状況にあります。ロラのなかには被害がもとで戦後ずっと独身を通してきた者も多くいます。彼女らは頼るべき家族がおらず遠い親戚の世話になり生活させてもらっています。わたしたちが生きていくうえでの衣料や生活の支援も大切なことなのです。
できれば皆さんにそのことも理解いただき心からの応援をお願いしたいのです。マパニケの女たちの被害という歴史の事実が消し去られ、忘れ去られることに耐えることができません。

いつも支援してくださる皆さんには本当に感謝しています。わたしたちを日本へ招聘し、証言の機会をつくってくださった皆さん、大変ありがとうございます。皆さんはわたしたちの真の友人です。
皆さんだけではなくフィリピン国内でも、他の外国の支援者たちもわたしたちのために闘ってくださっています。それをぜひ一つの正義を回復する目的のために有効に助け合って支援を続けていただければ幸いです。
ですからあえて皆さんに申しあげたいと思います。ここにいらっしゃる皆さん、ぜひわたしたちが希望の持てる、そして力づけられるような社会を、未来をつくっていただけるように期待しています。わたしたちの正義が回復されますよう皆さんの支援、献身を期待しています。


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フィリピン女性NGO団体カイサカ(KAISAKA) エミリーさんの発言 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン女性NGO団体カイサカ(KAISAKA) エミリーさんの発言
日本軍による戦時性暴力被害者三鷹・ロラ交流会で

わたしはエミリー・ファジャルドです。女性NGO団体カイサカ(KAISAKA)のメンバーで、今回ロラとともに来日しました。
 カイサカはフィリピンの全国女性NGOの連合体であり、さまざまのセクターの女性たちを、すなわち、工場で働く女性、自治体女性労働者や教師コミュニティのお母さんたちなどを組織しています。ロラたちの支援活動も行っています。
わたしたち女性はさまざまな社会分野で、抑圧され、低い地位におしこめられ、苦しんでいます。その被害に対して女性自身が立ち上がり、自分たちの組織を作り解決する活動が重要です。
現在進行しているフィリピン社会の経済危機は非常に深刻な影響をすべての国民、特に女性に与えています。グローバリゼイションにともなう軍事化に反対することはとっても重要です。ロラたちの被害を若い世代に繰り返させない闘いが必要です。

わたしたちはおのおののセクターの女性に対し「武装せよ」呼びかけています。それは決して武器をとることではありません。正確な情報を得て、いかに分析し、自分たちの組織をつくり、そしていかに自分たちの生活を向上するために工夫し闘っていくか、すなわち自分たちで考え自立していくことを「武装する」と呼んでいるのです。
正しい情報を手に入れることは重要です。特に人権侵害について。人はそれぞれ人権を持っており、女性一人ひとりが自分の人権を認識することは大変大切なことです。人権侵害はなぜ起きたのか、これを回復していくには何が必要なのか、どんな闘い方があるのか、自分たちで考えて決めていくのです。
ロラたちのことを考えてみてください。彼女たちは50年間自分たちの受けた人権侵害について正しい情報を得ず、女性同士の交流ももたず、50年間沈黙を強いられてきました。しかし長い時間をかけて自分たちの被害を見つめなおし、皆で話し合い、人権侵害を回復するには自分たちが主張し活動することだとの結論に到達しました。いまや団結してマラヤロラズを結成し名乗り出たあとのロラたちは、人権に対して敏感に反応し活動しています。

いまひとつ訴えたいのは今世界で起きているグローバリゼイションに反対することです。フィリピンではグローバリゼイション、自由化の影響をそのまま受けています。女性工場労働者はより不利な条件で働かされています。雇用が不安定な契約労働者化が進んでいます。多くの女性が失業しています。海外に働き口を見つけて出て行かざるを得ない女性も増え続けています。家事労働が女性の当然の義務という風潮は根強く存在しています。また売春で働かざるを得ない女性も増えています。
また、皆さんも郵政民営化問題に当面されていますが、フィリピンでもあらゆる公共部門での民営化が進んでいます。水道事業、電気事業、高速道路、エネルギー事業などすべての部門での民営化が進行しています。そのため物価が著しく高騰しています。石油は毎週値上げされました。バスやジプニーの運賃は何度も値上げされました。実は最近、北部ルソン高速道路が民営化され、料金が約10倍になってしまいました。以前は半官半民だったのですが、フィリピン最大のアラヤ財閥が買い受けたあと値上げしたのです。これが自由化・民営化であり、グローバリゼイションのもたらすものなのです。人々の生活は時々刻々と圧迫されています。
ですからわたしが申し上げた人権、これはタガログ語でカラパタンといいますが、このカラパタンを守る社会を築きあげるため、毎日のように抗議行動を行い、集会を行い、勉強会を行っているのです。しかも社会的に弱い位置にいる女性自身が自分たちで考え、組織し活動していくようになることがとても大切なのです。


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8月9日、マニラのロラズハウスを訪問し懇談。 [フィリピン元「慰安婦」]


8月9日、マニラ ロラズハウスで

8月9日、マニラのロラズハウスを訪問し懇談。

ロラたちは午前中に日本大使館前で抗議行動した後だったので、少し疲れ気味だったかもしれません。3時間ばかり懇談しました。リッチーさんが最近のリラフィリピーナの活動を紹介してくれました。リラフィリピーナは定期的に日本大使館前で抗議行動しています。

今年5月になくなったLola Rufinaさんのことを少し話しました。
奥の部屋にはすでに亡くなったロラたちの写真が飾ってあります。

マパラガットの神風記念碑にリラフィリピーナとして抗議していることを、リッチーさんから聞きました。


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パンパンガ州マパニケ村の戦時性暴力被害者たちのこと [フィリピン元「慰安婦」]

パンパンガ州マパニケ村の戦時性暴力被害者たちのこと

マパニケのロラたちは英語がそれほど得意ではない。そのため今回はタガログ語のできる方に通訳をお願いした。

マパニケは村である。高等教育の学校はない。また当時、住民の多くが小作人だった。1944年に日本軍によって、家が焼かれ家族は殺されたが、生き残ったロラの多くはその時10代半ばであり、その後の生活は困難をきわめ、学校へ行くどころではなかったのである。

しかも、通訳の人によれば、マパニケ村のロラたちは日常生活ではパンパンガ語を使い、証言してくれるとき通訳の都合によりタガログ語を話してくれていると聞いた。初めてその事実を知った。その意味では彼女たちはバイリンガルなのだ。

パンパンガ語とタガログ語は同じ系統の言語ではあるらしいが、単語はずいぶん違うらしい。タガログ通訳によればパンパンガ語で話されるとさっぱりわからないと言うのだ。

元「従軍慰安婦」が名乗り出たときに、英語のできる人が国際会議などで証言する例が多かった。今でもそうかも知れない。それはそれで立派なのだけれど、英語がそれほどできないロラたちも数多くいるという事実を、今回訪問するまでわたしはあまり考えなかった。
英語がそれほどできない数多くのロラたちが、自由に発言し主張できるようにしなければならないことも、また考えなくてはならない。


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フィリピン パンパンガ州アラヤット町を訪問、戦時性暴力被害者と交流 [フィリピン元「慰安婦」]


アラヤット  ロラ・メネンさんの自宅で

フィリピン パンパンガ州アラヤット町を訪問、戦時性暴力被害者と交流

8月11日、ロラネット訪問団は、フィリピン パンパンガ州アラヤットも訪問しました。
富士山に似た形状のアラヤット山が見えます。小ぶりですが形のよい気品のある山です。
アラヤットには戦時性暴力被害者団体、ロラズカンパニェーラの支部があります。

ロラズカンパニェーラのおばあさんたちが被害者の一人であるメネンさんの自宅に集まってくれていました。
メネンさんの家族は被害の事実や日本政府に対する抗議活動に理解があることもうかがいました。集会や会合で話を聞く場合にはあまり考えませんでしたが、おばあさんたちの暮らしのなかで話を聞きました。被害のあったあとの結婚した経過など夫の写真を見ながらの話でしたので、よりわかった気がします。一つ一つの生活があったし、あることをあらためて思いました

3人のおばあさんから証言を聞きました。証言は準備してくれていたようです。
十分な時間がなかったのが残念でした。

話を聞きながら、おばあさんたちのそれぞれの被害事実を一つ一つきちんと記録しておく必要を感じました。
日本政府は「事実認定」すらしないのですから、なおさら被害の事実をはっきりさせておく必要があります。日本政府は歴史の真実が消え去ることを期待しています。

「道義的責任」は1990年代はじめにやっと認めたものの、「法的責任」は絶対に認めない立場をとっています。

アジア女性基金」は、「道義的責任」に基づくものであり、民間からの善意の募金によって成り立っています。したがって、「アジア女性基金」は「日本政府の法的責任を認めない」立場からの対応なのです。


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