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映画「二つの判決」を観る [映画・演劇の感想]

映画「二つの判決」を観る

 今年の1月、中野ポレポレ座で、「二つの判決」を見た。
 袴田巌「名張毒ぶどう酒事件」死刑囚・奥西勝の二人の冤罪を描いている。

  
 袴田巌は、死刑囚ながら、釈放されているので、その日常を映してはいるが、長年にわたる拘禁による障害が残っている。長期にわたる拘禁による心身への傷害や妄想もある、最初の半年は、外へ出ようせず、家の中だけを歩き回っていたという。今もなお家の中を歩き回っている。獄中で、歩きまわり体の好調を維持してきた習慣を、そのまま繰り返している。
 したがって、自身で、冤罪を告発することができない。被害者の声を拾おうにも、拾うことができない。姿を映しても、冤罪の全貌を描き出すことはできない。そのため、支援する家族の姿を映すことになる。

 最近、外での生活に少し慣れ、姉・秀子と一緒なら、外出できるようになったという。ボクシングの試合を見に出かけた。ボクシング協会は袴田を支援し、協会として無実を訴えている。試合前にリング上に招待され、客に手を振る袴田の表情は晴れやかだ。
 将棋はよく覚えているらしい。映画監督と指すそうで、袴田が74戦全勝だという。将棋に勝った時の袴田のうれしそうな表情が印象に残る。普段は無表情なのだ。
 自分の好きなことには、興味を示すようになった。その意味では、ゆっくりであるが、回復しつつある。79歳(?)の年齢から回復はゆっくりに見える。

 徐々に回復を見せていることは感動的だけれども、一人では生きていけない状態であり、自立した社会生活を送ることができるできるまで回復するかどうかは疑問だ。年齢も高い。彼が失った人生の貴重な時間はもはや取り戻すことはできない。

 なんと残酷なことをしたことか。

 警察・検察がいったん捜査方針を決めたら、これを覆さない。そのような態度がつくりだした冤罪である。その責任は大きい。

 姉の秀子さんは、袴田巌が出てきた時に生活に困らないように、貯蓄し9,000万円のローンを組んで4階建てマンションを一棟購入した。3階は袴田姉弟が住んでいるが、そのほかの部屋は、貸に出しており、その家賃収入で暮らしているようである。このような家族の支えがあって、袴田巌は出てきても働かなくても生活には困らない状況がつくりだされている。そのためにどれほどの犠牲や負担があったことか。
 袴田は、無罪になっていないので、国民健康保険もなければ、年金もない。そのうえ、拘禁による症状は続いている。警察・検察の犯罪であるが、何の責任も取らない。

 「名張毒ぶどう酒事件」。
 映画は、ぶどう酒瓶の王冠を新証拠として紹介している。当時は奥西は王冠を歯で開けたそうで、歯形が残っているという。毒ぶどう酒事件は、村の公民館?での会合で起きた。公民館の囲炉裏のようなところから、ぶどう酒の王冠はいくつもは発見されている。弁護側が示した新証拠は、王冠に残った歯形は奥西の歯形と一致しない、そう指摘している。
 袴田巌の姿は映像で見ることができるが、奥西勝は獄中(八王子医療刑務所)に拘束されており、その姿を映すことができない。しかも2015年10月だったと思うが、すでに亡くなったので、映像で残すことができない。これも残酷ではないか。
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映画「パレードにようこそ」を見る [映画・演劇の感想]

 映画「パレードにようこそ」を見る

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 2014年のイギリス映画。
 1984年、サッチャーの20か所の炭鉱閉鎖案に抗議して、英国全国炭鉱労働組合がストライキで闘った頃のことを描いている。冒頭はピート・シーガーの「連帯は永遠に」の歌とともに始まり、アーサー・スカーギル英国炭鉱労組委員長の顔も見える。

 ロンドンでマークたちが、ゲイとレズビアンの権利のためにデモをするが、いつも殴りかかってくる警官たちがいない。炭鉱労働者の闘いの現場のTV報道を見て、奴らが炭鉱へ動員されていることを知る。「炭鉱労働者もレズビアンやゲイと同じく、権力者にいじめられている、支援しよう!」と思い立ち、「炭鉱労働者を支援する炭鉱労働者を支援するレズビアン&ゲイの会」(以下:LGSM)を立ち上げる。
 ただそこからが、少々大変で、炭鉱労働組合へ支援を申し入れても、労働組合にもレズビアンやゲイに偏見があって、なかなか相手にされない、支援を受け入れてもらえない。ただ、偶然も手伝って、ウェールズの炭鉱町ディライスが支援申し出を受け入れることになる。
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 そこは田舎の炭鉱町住民と炭鉱夫たち。同性愛に偏見があるものの、大きな政治権力を相手とした、展望の見えない戦いのさなかにいる炭鉱夫たちと家族は、見知らぬ友人たちからの支援の申し出を、戸惑いながらもありがたく受け入れることになる。炭鉱町ディライスを代表してLGSMを訪ねてきたダイは、同性愛コミュニティやマイノリティの人たちも、自身の権利を主張しながら闘っていることを知る。そして、「支援金は単なるお金ではない、皆さんからの友情だ」と言って、支援を受け入れることにする。

 LGSMのメンバーたちが炭鉱町ディライスを訪れ、炭鉱夫ばかりの住民と交流する。その過程で、レズビアンやゲイも自分たちと同じ普通の人であり、マイノリティとしての苦しみと闘いを知る。そのあたりを映画はユーモラスに、しかし住民の「偏見」tの闘いをリアルに正面から描く。この描写がいい。そこに人としての交流がはじまる、互いに互いを理解しようと努力する姿が生まれる。

 そのうち、タブロイド紙が「オカマが炭鉱ストに口出し」と書きたて、偏見を煽る。それでディライスの炭鉱労働組合では、LBSMからの支援を打ち切る決議がなされ、混乱や妨害にも当面する。
 「タブロイド紙は嘘ばかりだ、信用しない」と老炭鉱夫がつぶやくのを聞いて、「同じだ!」とつい笑ってしまった。日本の場合は、読売、産経など大手新聞、TVも、週刊誌も、すでに充分タブロイド紙並みに成り下がっているけれど。

 大資本家の代理人・サッチャーが、当時も、死んだ現在もなお、労働者たちから「クソッタレ!サッチャー」と呼ばれていル。人々から、憎まれ軽蔑されている。あらためて、なるほどそうなのだろうと思った。
 炭鉱労働者のストライキとゲイやレズビアンの生きる場所と権利の拡大の歴史が、闘いのなかで重なって互いを認識した経過は、素晴らしいし、美しい。
 (2015年5月、銀座シネスイッチで上映) (文責:児玉繁信)
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『NHKと政治権力』(永田浩三著)を、読む [映画・演劇の感想]

 『NHKと政治権力』(永田浩三著)を、読む  
 
岩波現代文庫  2014年8月19日発行


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<『NHKと政治権力』 永田浩三著 岩波現代文庫>


 2000年の女性国際戦犯法廷を取材したNHKドキュメント番組に対し、安倍晋三・中川昭一ら政治家による介入があり、NHK幹部がその意向をくみ取り番組改変を行いました。放送直前に政治家とNHK幹部が接触し、「慰安婦」問題を扱った番組を著しく改変したのです(「ETV2001 事件」)。

 番組「ETV2001」の総括プロデュ―サーであった永田浩三さんが、政治家の意向をNHK内部で忖度しどのように番組改変が行われたのか、その経過をまるでドキュメンタリーのように詳しく描出しているのがこの本です。自身がいったん作成した番組を、NHK幹部の指示で切刻むことを強要された当のプロデューサーですから、これ以上詳しい描写はありません。
 番組改変の経過だけでなく、どうしてNHKでこのような政治介入が起きるのか、その原因、背景である「NHKと政治権力の関係」も、詳しく描きだしています。

 事件後の経過は厳しいものでした。永田さんらは左遷されます。番組作成の協力会社、ドキュメンタリー・ジャパンの番組担当スタッフは退社を余儀なくされ、NHKエンタープライズの関係者が降格させられます。ただ、著者は事件後すぐに告発できたわけではなく、VAWW-NETジャパンがおこした裁判第一審でもNHK側の証人として出廷しています。

 このような経過が、著者の「悔い」も含めそのまま正直に書き記されており、信頼して読むことができように思いました。ただ、NHK内部にいた人の描出であり、VAWW-NETジャパンの立場、或いはドキュメンタリー・ジャパンの番組担当スタッフからすればまた少し違った描写になるのかもしれません。

 2005年1月になって、番組作成の長井暁デスクが記者会見し、当時何があったか告発します。勇気ある告発でした。そのあと著者ら何人かが集まり、当時何が起きたのか調査し記録します。そして2006年3月高裁では、著者は証言台に立ち、番組改変の事実経過を述べ告発します。その結果でしょうか、二審の高裁ではVAWW-NETジャパンの主張が認められ勝利判決を得ます。判決内容は、いろんな人々の努力で勝ちとられた成果であることがよくわかります。

 ただ、最高裁判決は、番組への政治介入を「NHKの編集権」として認める残念なものでした。また、永田さんらが告発した政権寄りのNHKの体質はいまだ克服されていません。「ETV2001 事件」以来、NHKでは「慰安婦」問題を扱った番組は作成されていません。安倍政権になった2014年には、籾井勝人会長就任や長谷川・百田経営委員の送り込みなど政権による介入もより露骨になっています。

 著者・永田浩三さんは、「NHK籾井勝人会長・辞任&罷免の勧告」退職者1,527人の署名による経営委員会への申し入れ書の呼びかけ人179名にも名前を連ね、今もなお告発し続けています。

 手にとって読まれたらいかがでしょうか?  (文責:児玉繁信)

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木下夕爾の詩をとりだして読む [映画・演劇の感想]

   生誕百年

  木下夕爾の詩をとりだして読む

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<木下夕爾 (1914~1965)>

 詩人・木下夕爾(1914~1965)は、広島県深安郡上岩成村(現在は、広島県福山市御幸町上岩成)に生まれた。中学時代は詩に熱中し、1932年上京して第一早稲田高等学院文科に入学した。1935年義父が倒れ、家業の薬局を継ぐため、やむなく名古屋薬学専門学校に転学した。1938年に帰郷し、それ以来亡くなるまで郷里で過ごし、薬局を営みながら在郷の詩人として生涯を送った。結核を患い病弱であったため兵に取られることはなかった。また地方にいたためか、文学報国会で戦意高揚の詩を書くのもまぬがれたようである。

 18歳~21歳の三年間を過ごした東京生活を終生、まるで恋人のごとく想いつづけた。夕爾の詩は、東京での詩人仲間との生活から生まれるスタイルがいったん確立したようで、そのためか東京へのあこがれはながく夕爾のなかに残った。

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 戦争末期から敗戦直後の時期に、広島県備後地方にも幾人かの文学者が疎開したり、また外地から引き揚げてきた。井伏鱒二、小山裕士、村上菊一郎、木山捷平、藤原審爾らとの交流が、夕爾に新たな刺戟を与える。しかし、戦後復興がはじまると彼らは上京してしまう。夕爾には扶養家族もあり郷里を離れることはできなかった。取り残された夕爾はある哀しみを抱くが、すでに在郷の詩人として再出発すると決めていたようである。そのように読みとれる。


    東京行
近江卓爾兄に示す

 金をこさえて東京へ行つて来よう
 さう思つて縄をなつてゐる
 行つてどうといふこともないが
 昔住んでた大学町附近
 過ぎさつた青春について今さら悲歎にくれてもみたい思ひがする
   (われ等はや未来よりも過去の方が多くなつた)

 けれどどうにかまとまりかけると汽車賃が倍になる
 縄なひ機械を踏む速度ではとても物価に追ひつけない
 私のこの足はすでに東京の土を踏んでゐるかもしれない
 なひあげた縄の長さは北海道にも達するだらう

 冬ざれの野原の見わたせる仕事場へ
 わが子はふところ手でかへつてきて
 けさは池に厚い氷が張つたといふ
 霜に濡れたビナンカヅラの実を縁側にならべ
 クリスマスのお菓子をこさへようといふ
(詩集『木靴』第一冊 一九四九年三月より)


 妻・木下都によれば、夕爾自身は病弱だったため薬局の店番くらいしかできず、三反ばかりの百姓仕事もほとんどできなかったし、縄ないする姿を見たことはないという。

 「縄なひ」は百姓にとって数すくない現金収入だった。詩人は、足踏みの歩数を数えたかのように書いている。

 それにしても「縄をなう」とは懐かしい言葉だ。足踏み式の縄ない機に、よくしごき藁ごみを除いた稲わらを供給し続け、縄をなう。充満するわら埃の匂いと縄ない機の音を思い出す。
 夕爾の東京への憧れは、1949年の詩「東京行」の頃には、自身の生活を見つめながらの憧れに変わっているようでもある。


    晩夏

 停車場のプラツトホオムに
 南瓜の蔓が匍ひのぼる

 閉ざされた花の扉のすきまから
 てんとう虫が外を見てゐる

 軽便車が来た
 誰も乗らない
 誰も下りない

 柵のそばの黍の葉つぱに
 若い切符きりがちよつと鋏を入れる
(詩集『晩夏』一九四九年六月より)


140918 1957年、加茂川べり立つ木下夕爾  - コピー (227x320).jpg

 
 夕爾の薬局は、山陽本線福山駅から内陸にはいる福塩線・万能倉(まなぐら)駅の近くにあった。夕方よく夕爾は、自宅近くの加茂川べりや福塩線近くにたたずんだという。詩「晩夏」は、故郷の万能倉駅の情景を歌ったもののようだ。

 栗谷川虹によれば、戦時中彼の郷里、信州小諸地方の駅のプラットホームには食糧増産のため南瓜やさつま芋が植えられており、だから駅構内に南瓜や黍があっても少しも不思議ではない、詩「晩夏」を読んだ時、彼(栗谷川)は郷里の光景を鮮やかに思い出したという。
 詩が発表されたのは1949年であるし、駅も違うが、たぶんその通りなのだろう。

 晩夏の人けの少ない、時の止まったような地方駅、切符きりが黍の葉に鋏を入れるや、一瞬にして色彩が端々まで走り、描かれた光景は命を得る。じりじりとした夏の日差しが目に浮かび、蝉のやかましい鳴き声が聞こえてくるようでもある。詩のとらえた一瞬の光景が広がる。

 夕爾生誕100年を迎えた現在も、万能倉駅は高校生の通学する朝夕以外は、ほとんど乗降客はない。車社会になり夕爾が生きた当時より、さらに別様にさびれているかもしれない。無人駅となってすでに久しく、「若い切符きり」も姿を消したままである。

 夕爾生誕100年の2014年、彼の詩をとり出して読むのもまたよかろうと思う。

 <追記>
 写真はすべて、『生誕100年 木下夕爾への招待』(ふくやま文学館 2014年9月12日発行)からとった。また、9月14日、ふくやま文学館で栗谷川虹氏の講演があり、そのなかで「戦時中、プラットホームに南瓜やさつま芋が植えてあった」と聞いた。 (文責:児玉繁信)

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木下順二『神と人とのあいだ』を観る 民藝 [映画・演劇の感想]

 木下順二『神と人とのあいだ』、紀伊国屋劇場
 
2013年4月12日

  4月に紀伊国屋劇場で、民藝による木下順二『神と人とのあいだ』第二部の上演があり、観る機会があった。

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 1)民藝の上演は現代的な演出であったか?

 木下順二は1970年にこの戯曲を書き、日本の支配層と民衆自身の戦争責任の追求を試みた。戦争責任をどのように果たすかは、現在もなお重要な課題として残っている。もちろん情況は、1970年当時と2013年とでは同じではない。

 「南京虐殺はなかった」、「『慰安婦』などいなかった」という宣伝がマスメディア、インターネットを中心に支配的に広がっている現代であり、「歴史の書き替え」を公言する安倍政権が登場した2013年である。上演後ではあるが、5月には橋下徹・大阪市長が、「『慰安婦』制度は必要だった、日本ばかり非難されるのはおかしい」と発言、沖縄・米軍司令官に対して「米兵の性犯罪を減らすために風俗業を利用したら」と提言し、その人権意識の低さ、歴史認識の誤りを露呈し、国際社会から厳しく批判された。橋下市長のような認識は、急速に増大している。現代日本社会の風潮の一端を表現しており、決して特別ではない。そんな人権意識の欠落した、軍国主義を清算していない現代日本社会である。したがって、権力者と民衆内部の戦争責任追求は、いまだなお21世紀の日本社会の当面する現代的な課題として残っているばかりでなく、新たなかつ現実的な課題として浮上している。

 民藝の演出は、このような現代的情況への批判をまったく織り込んではいなかったし、「そもそも現代的状況への無関与を初めから決めてかかっていた」というような印象さえあった。もしそうであるならば、それは演劇と演劇運動の自殺である。

 自分たちの歴史や暮らしを見つめ、認識を深め、反省し検討するという、宇野重吉滝沢修らがかつてめざした演劇と演劇運動の特質、あるいは活力をすでに失っており、演出はただ「謙虚に」、原作を尊重するという態度、原作をなぞることをのみめざしていたようである。そのことで、作者・木下順二が描きだそうとした視点、問題提起の多くを掴み損ねることになっていたように感じた。
 このようなことはあらかじめ予想されていたことであって、今回の演出に期待していたわけではなかった。ただそれにしても、やはり残念であった。

 2)日本支配層と民衆自身の戦争責任の追求

 したがって観劇の興味は、『神と人とのあいだ』第二部で木下順二が、どのように戦争責任を追及し、戦後出発を描いたか、に集中した。A級裁判に焦点を当てた『神と人とのあいだ』第一部があり、それとの関連で第二部である。第一部を見ていないし、『神と人とのあいだ』に対する評もたくさんあるのだろうが、きちんと調べていないし知らない。そのような立場で批評するのははなはだ不十分であり作者に失礼であるが、不勉強な観客であることを自覚したうえで、感想を記しておきたい。誤解や間違いがあればすべて筆者の責任である。

 木下順二がこの戯曲を書いた1970年当時の日本は、戦後復興からさらに発展し世界第二の資本主義国となった。日本資本主義は高度に発展し、あるいは帝国主義復活が誰の目にも明らかになった時期であった。木下順二は、その「発展」のなかに日本軍国主義の復活、危険な傾向を感じ取ってこの戯曲を構想したのであろうし、新しい侵略戦争の危機を肌身に感じながら筆を進めているようなのである。作者の問題意識は積極的なものであり、評価すべきである。そのような劇作家は極めて稀であることを我々は知っている。

 木下順二はこの戯曲で、日本の支配層と民衆自身の戦争責任の追求を試みた。戦後の日本人が侵略戦争の歴史をどのように評価するのか、敗戦後どのように再出発しようとしてきたのか、戦後25年の経過・変化のなかで検討を試みている。そのことは軍国主義復活の根源を見つめ直すこと、戦後二五年の日本社会の本質的欠点を描き出すことでもある。その焦点となるのが、日本の支配層と民衆自身の戦争責任の追求である、ととらえている。その認識、設定は基本的に正しいと思う。

 そのような原作の基本的性格、あるいは態度は評価すべきであるし、期待した点でもあった。けれども、今回初めて上演を観て、そののち戯曲を読んだのだが、木下の提示している「日本の支配層と民衆自身の戦争責任の追求」、その批判の方向・内容は極めて不十分であるという印象を強く持った。『神と人とのあいだ』には、多くの「混乱」があると感じたし、木下順二の描写による提示、批判に強烈な違和感を抱いたのである。

 3)違和感とは?
 3)-1、 島民、猿の如き扱い

 戯曲では、戦争中に日本軍が占領した南方の島民66名をスパイ罪で処刑したと設定される。
 まず驚いたのは、登場する日本兵のいずれもが、高級将校も下級兵士も処刑された兵士Fも含めていずれもが、処刑の事実、その意味をきちんと見つめていない、反省していないことだ。

 登場人物は誰もが、島民処刑が重大かつ深刻な犯罪であることの意味よりも、処刑を理由にBC級裁判で裁かれ責任を問われないかを、恐れ怯えている。島民の被害など少しも考慮しないで、ただ自分たちの身の上だけを心配している。戦中であれば思っていても公然とは語り会えなかったろうが、敗戦後となってもなお島民の被害とその発生原因・責任を、批判的にかつ明確に認識するに至っていない。島民を同じ人と見なしていない、一人一人の「顔」を覚えてさえいない、一人の人と扱っていない。そのように登場人物を描き出す。

 その姿は戦後の日本人像として、一定のリアルさをもっているのだろう。南方の島民に対する日本人による認識、未開人、土人という意識は、戦前と変わっておらず戦後も引きずっている。
 問題は、木下順二が「意識的」にではなく、「無意識的」に、「無批判に」そのような描写を重ねているところにある。

 例えば、「わたしのラバー(lover:愛する人)さん、酋長の娘、色は黒ても、南洋じゃあ美人・・・・」という歌謡などは、軽妙で攻撃的ではないが、南方の島民は未開人であるという侮蔑を明確に内包している。戦後何十年ものあいだ、親の世代から何度も聞いた記憶がある。

 あるいは、対象はフィリピン住民だが、戦争と日本軍首脳に対する批判を内容とする大岡昇平『レイテ戦記』のなかで、当時日本軍が抵抗するフィリピン人を「土匪」、「共匪」と呼んだ呼称を、作者・大岡昇平はそのまま無批判に踏襲している。あくまで戦った日本軍兵士の視点のみであり、兵士らが殺し破壊し犯したフィリピン人の視点は欠如している。日本軍下級兵士とフィリピン人との関係は欠落していたし、戦後においても回復されていない。そのことに対する認識、反省もない。『レイテ戦記』の最後で、大岡は「フィリピン人こそ被害者であるにもかかわらず、十分に描かなかった」と反省めいた記述を残している。しかし、あくまで完成した後での反省文の追加であって、『レイテ戦記』の性格を変更するものではない。(もちろん『レイテ戦記』は、信頼して読むことのできる数少ない『戦記』であるし、大岡は戦争を起こした日本軍首脳を徹底して批判した文学者のひとりである。この「表記」よって『レイテ戦記』の意義が損なわれたと主張しているわけではない。)

 さて、問題は木下順二に、「猿の如き島民の扱い」に対する批判があるかということなのだが、明確には存在しない。木下も登場人物たちと同じように、文明に達してない島民、未開人として扱っていた。島民の表情は一色であり、描き分けていない、島民を対等の人間とはとらえていない、そのような造形となっている。何よりもこの島民の描写とその描写に対する木下順二の無批判に驚いたのである。

 3)-2、「自分たち日本人は被害者」

 さらに、戯曲では生き残った兵士も、処刑された兵士Fの妻も、「女漫才師」も、自分たちを、あるいは日本人全体を、戦争被害者として強く意識する姿に描き出していた。このことにふたたび驚いたのである。確かに日本人の多くは悲惨な戦争被害者であった、しかし日本が侵略しアジアの多くの人びとに被害をもたらした歴史に対する批判を、どの人物も明確に提示しないのは明らかにおかしい。戯曲は、敗戦から数年後と設定されている。木下が書いたのは1970年当時である。1970年に至ってもなお、疑問に思っていない。

 日本人の被害者ばかりが登場し、それぞれの「被害者意識」を披露する。確かに被害者の立場でものをとらえるのは当然のことだ。しかし、登場する人物は誰も、被害が起きた原因は何か、誰が「加害者」なのか、誰が戦争を引き起こしたのか、少しも認識していないし、しようとしていない。その事実をおかしいとも考えていない。そもそも誰が責任をとらねばならないのかを考えようとしていない。自分たちは被害者なのだが、被害が何の原因で起きたのかを問わずに、「被害」だけを嘆きおののいている。起きた現実に対して「無知な人々」として「生き残った日本人」を描き出し、かつ作者の木下がそのことに無批判なのである。このような戦後の日本人たちは、この先果たして戦争を批判し平和を享受することができるのだろうか、疑問に思う。

 戦前にも日本支配層は意図的に「自身を被害者と描き出した」ことがある、そのことが侵略正当化の口実に利用された。戦前の日本支配層は、「ABCD包囲網によって圧迫された被害国・日本は満州、シナに進出する以外にない」と、「被害者意識」で塗りつぶして状況を描き、侵略・戦争遂行へと国民を導く一つの「理屈」に用いた。もっとも、「ABCD包囲網」など、デマ以外の何ものでもなかった。

 こんなことをいうのは、2013年の日本人のほとんどが、領土問題で一方的に韓国や中国から「被害」を受けていると認識しているという、不可思議な事態、似た事態が起きているからである。おおよそ90%以上の現代日本人が、領土問題において「日本は被害者」と思い込んでいる。領土問題は、明治以降侵略した日本がその原因をつくったのであって、一方的な被害者と描き出すことなどできない。「為政者が被害者意識を煽るのは、目の前の日本社会の矛盾から目をそらすため」と疑わなければならない歴史的経過と根拠が存在する。

 「被害者意識」で国民を自己陶酔に導き、自身の犯罪を隠す政治手法は、むしろ現代的であり一般的であり、きわめて危険であると知っておかなくてはならない。
 イスラエルを見ればはっきりとわかる! 2000年以上もの民族の迫害、苦難、放浪の歴史を訴え強調し、『約束の地』の獲得、ユダヤ国家建設を訴え、その背後でパレスチナを占領し侵略しパレスチナ人への迫害行為を正当化し隠し、パレスチナ人の被害を無視してきた。そして自身の受けた迫害、苦難、放浪の歴史を、そのままパレスチナ人に押しつけている。「被害者意識」への自己陶酔は、自身の加害、侵略行為を「見えなくする」、為政者は政治的「目くらまし」として利用する。そのことをよく知っておかなくてはならない。

 したがって、自身のことを被害者と描く際には、被害の事実を明確に認識していなくてはならない。他の国の人々の被害をも明確に認識していなくてはならない。あるいはどうして被害が起きたのか、誰に責任があるのかを明確に認識しておかなくてはならない。それなしに、事実の確認はさておいて、とにかく自分らは被害者だと、涙に溺れるようなことがあってはならない。涙で、あるいは「被害意識」で、何も見えなくなってしまってはならない。支配層からの宣伝に取り込まれたそのような日本人がかつて多く存在したし、今も再生産されている現実を自覚しておかなくてはならない。

 確かに、戦後の日本人の一つの傾向、愚かな姿であったのかもしれない。多く存在したタイプであろう。であれば、戦後日本人のタイプを取り上げる木下順二は、次にその欠点を指摘するだろう、批判的な人物を登場させるだろう、打開する方向を提示するだろう、そう期待した。その期待は裏切られた。木下は無批判であった、明確な批判を立ち上げなかった。

 木下ばかりを批判するだけでは十分ではない。

 ほとんどの日本人が第二次世界大戦を語るときに、被害しか語らないという「不可思議」な「態度」をとり続けている。東京空襲などの戦争被害、広島・長崎の原爆被害を、日本や世界中の人々に語り訴えかけることは、現在もなお重要なことである。そのような活動を継続されてる人たちが多くいることに敬意を表さなくてはならない。しかし、「戦争被害を語る、原爆を語る」とは、被害の深刻さを語ることに終わっている傾向にあるのもまた事実である。戦争を起こした責任者を追及する声は欠落している。原爆投下による大量殺害に対する責任追及は欠落している。戦争を起こした原因は何か、責任者は誰か、追及しない。歴史認識を意図的に避けている。
 日本の支配層が、日本社会が、そのような「限定」で語ることを望み、強要するからであろう。また利益誘導するからであろう。
 日本の大手マスメディアを見よ!日本支配層の要請に、進んで従っている。ジャーナリズムの腐敗が、その「見事な見本」が目の前に存在している。

 誰が、なぜ戦争を起こしたのか、起こした理由はどのように不当なのか、誰に責任があるのか、少しも追及しない日本社会である。「二度と戦争を起こしてはならない!」といくら叫んでも、起こす原因を明確にし、すなわち歴史評価を行い、起こした責任と責任者の追及、処罰しなければ、「二度と起こさない」保障にはならない。「被害者意識」だけ語るのは、『神と人とのあいだ』の登場人物ばかりではないこと、むしろ現代の日本人の一つの典型であることを、自覚し批判し、克服を目指さなければならない。それがわざわざ木下順二の『神と人とのあいだ』を論じる意義の一つでもある。


 3)-3、「BC級裁判はデタラメ」か!

 いま一つは、木下順二によるBC級裁判の扱いである。確かにBC級裁判において、不十分な取り調べや間違いが多かったのは事実である。日本軍参謀・佐官級のごまかしや策略に、裁判官・検事を務めた連合軍佐官級が引っかかって、その結果旧日本軍上級将校は逃げおおせ、下級兵士、軍属が苦痛と犠牲を強いられ生命を失ったケースも数多くある。そのような「不条理」はいくつもある。しかしだからといって「BC級裁判」すべてがデタラメであった、間違いであったことにはならない。「BC級裁判がデタラメなものであった」とする主張が戯曲の前提、主調となっており、作者・木下順二が無批判に追従していることに、みたび、驚いたのである。

 BC級裁判は何を裁いているのか? そもそも日本の侵略戦争、侵略行為が審判の対象ではないか? 台本は、このことを忘れBC級裁判の不十分点の指摘ばかり強調し、その結果BC級裁判はデタラメであると描きだしている。

 戦後の日本社会と日本人が「BC級裁判」がデタラメであったと批判するためには、あるいは「戦勝国による敗戦国の審判であり不当である」と批判するためには、日本人社会が自身の力で戦争犯罪と戦争犯罪者をきちんと丁寧に、かつより適確に裁いて初めて、そしてまた日本軍国主義、天皇制政府の敗北は歴史の進歩であるという歴史認識を獲得して初めて、そのように主張する権利を獲得する。

 占領終了後の日本社会は、果たして戦争犯罪と犯罪人を自分の力で「間違いないように、デタラメを正して」裁いたか? 東京裁判、BC級裁判で逃げおおせた多くの戦争犯罪者、責任者を適確に告発し、裁き直したか? 日本社会は、正しい歴史認識を獲得したか?

 決してそのようなことはしなかった。むしろ、逆だ。
 東京裁判は、一応は軍部に責任を負わせることにし、戦争犯罪人である天皇や財閥を裁かなかった。昭和天皇と天皇制を延命させた。財閥など追及されてもいない。戦争遂行に加担した警察や検察、裁判官、官僚は、何の責任も追及されずに、生き延びかつ居座ったのであった。軍国主義日本から、民主日本に生まれ変わったが、政府官僚司法の顔ぶれは変わらず、看板だけを掛けかえた。
 そればかりではない、生き残った岸信介らA級戦犯を早くも復権させた、岸は首相にまでなった。処刑されたA級戦犯らを靖国神社に合祀した。戦争を起こした原因は何か突き詰めなかったどころか、侵略の歴史を隠し騙し、歴史を書き換えようとしてきたし、今もしている。
 「東京裁判、BC級裁判が不当で、デタラメだ」という主張は、日本支配層の政治的立場においてなされている。これに吸収される結果に陥ってはならない。

 したがって、「デタラメ」であるとまず非難されなければならないのは、戦後の日本政府、支配層であって、東京裁判、BC級裁判ではない。そのような経過と現状を無視して、BC級裁判はデタラメであったと描きだすことに、決して賛成できないし、そんなことをしてはならない。

 (木下順二は「第一部」でA級裁判を扱っており、日本の侵略・戦争犯罪への批判に対して、米国の原爆投下による市民の大量殺戮を持ち出し、「戦勝国が敗戦国の国民を裁く不当性」を指摘し、特に米国批判を一つの主張として取りあげている。大量殺戮は戦争犯罪であり追及されなければならないが、その前に、第二次大戦がファシズム対反ファシズムの戦争であったという基本的な歴史的評価が欠けている。日本やドイツの敗戦は歴史の進歩であることを認めなければならない。
 さらにまた戦争を国家間の争いと見なせば「戦勝国と敗戦国」という混乱に当然のこと陥る、そして国民を均一な存在と見なす民族主義に支配されているうちは、「国民間の争いによる戦争」に巻き込まれるであろう。1970年当時の木下順二は、反米の民族主義に傾いているように見える。これは別途検討しなければならない。)

130603 木下順二『神と人とのあいだ』 (242x320).jpg

 4)木下順二は、何を言いたかったのだろうか? 

 戦争中に日本軍は島民66名をスパイ罪で処刑した。日本軍が占領した南の島、島民とは言葉が通じないと設定されている。治安維持、軍規引き締めのために、旅団長、参謀長よりもむしろ参謀中佐が主導し、島民を「スパイ」と仕立てて強引に処刑させた。軍首脳が、軍隊内の規律を維持し支配を強めるため、島民をスパイにでっち上げ、無実の島民を処刑させるのである。そこには何のためらいもない。処刑させることで侵略の軍隊に、非人間的な兵士に育てあげる、軍規引き締めの効果をもたらす。何も考えず殺人命令に従う非道な兵士を育て上げるのである。この島で起きた特殊な事件だとしても、日本軍に共通する特有の、非道なやり口である。このような日本軍隊の性格、特徴の描写は、適確である。

 積極的に従った兵士もいれば、いやいや従った兵士もいる。
 日本軍が犯した「犯罪の意味」をまず確認しておかなければならない。木下の戯曲には、この歴史的犯罪の事実認定と、それに対する批判が、きわめて弱い。

 裁判もなしに処刑したことが、戦後のBC級裁判で問題になり、主導者である参謀中佐は「裁判に準じる軍律会議を開催しスパイ罪と裁き処刑した」ことにし、そのために旅団長から下級兵士まで旅団員全員に口裏合わせをさせた。連合国の裁判官は、この「偽装」に簡単に騙された。その結果、参謀中佐の刑は軽くなった。もちろん、軍律会議など開催したことなどなかった。

 他方、尋問中に島民2名が死に、尋問した下級兵士の実行犯としての罪が追及された。日頃から島民に「親切」に接し、命令にいやいやながら従った兵士Fが、罪に問われ死刑宣告された。

 戯曲は、「本当に罪ある者は追及から逃げおおせ、罪のない者、軽い者が極刑に処せられた」という「悲劇」をベースにしている。島民の悲劇を素通りして、描き出す「悲劇」である。

 このような設定自体、果たして適切なのだろうか? 確かに「不条理」がそこに存在する。この「不条理」の指摘と克服を観客に提示する構成になっている。
 しかしこの不条理、被害者意識は、生き残った兵士とその遺族のものであって、島民のものではない。戦争犯罪を根本から裁き、告発するものではない。

 さらに、BC級裁判には多くの間違いがあったが、BC級裁判は日本の侵略を裁いているのであって、反ファシズムがファシズムを打倒した戦争の性格、それは歴史の確かな進歩であったが、そのことを忘れてしまったり、無視する権利を与えるものではない。

 「本当に罪ある者は追及から逃げおおせ、罪のない者、軽い者が極刑に処せられた」という「悲劇」を設定するのはいいが、この場合罪のない者、被害者とは、まず島民である。しかし島民は抜け落ちている。そのような歴史認識が欠けている。
 BC級裁判における「間違い」は大きな問題ではあるけれども、だからといってそれよりもさらに大きい歴史の進歩を忘れる権利を獲得するものではない。反ファシズムの立場に立つことを決して忘れてはならない。

 木下がこれをどのように批判し覆すのか? 注目した。しかし批判はなく、覆しもしなかった。

 兵士Fは大卒なので幹部候補生の試験を受け下士官になる資格があるが、試験を受けず上等兵のままであった。島民に親しく接し、通訳のような役目を果たした。島民に「親切」に接したので顔を覚えられていた。有利な証言を期待して親しく接した被害者の子供を証人として呼んだが、「母親を尋問し殺した兵士は誰か?」と尋問された時、被害者の子供は兵士F を指差した。その結果兵士F は処刑されることになった。「悲劇」であるとされる。生き残った日本兵は「誤解に基づく悲劇である」と、都合よく理解している。

 ただ、その悲劇は、日本軍兵士側からの説明である。果たして「誤解」なのか? 島民は兵士Fを「親切」だと思っていたのか? はなはだ疑問である。

 裁判では島民の誰もが兵士Fを擁護する証人に立とうとはしなかった。その事実は、島民にとって兵士Fも他の兵士も将校も同じ顔に見えたことを証明している。「親切さ」は、島民に伝わっていない。「親切さ」として伝わらない「親切」、日本兵の側が一方的に思い込み主張する「親切」であったことは、劇の設定からほぼ明白なようである。被害者の子供であれば「親切さ」を理解するだろうとして証人に立たせたが、この子供が日本軍と兵士Fをとくに区別せず、兵士Fにも「親切さ」よりもいくらかの「憎しみ」を抱いていたのも、劇の設定からしても明白なようである。

 にもかかわらず、その「疑問」は戯曲では検討されていない。被害者である島民の怒りは登場せず、「親切」であったとする島の支配者であった日本兵の認識をそのままそのまま無批判に、作者・木下順二が踏襲している。
 また、反ファシズムとファシズムの戦争であったという評価は、木下の戯曲には少しも出てこない。「勝者が敗者を裁いた」としか描かれていない。「勝者」が『神と人とのあいだ』の「神」である。

 最近の日本の右翼や支配層は、東京裁判を「勝者が敗者を裁いたものであった」、「負けたからまずかったのであり、勝てばいい」と公然と主張しており、木下の描写と論理は、その点において区別できないところがある。
 日本政府は現在もなお、韓国政府に対し、「過去の植民地支配を決して謝罪しない」立場を堅持しており、そのことが戦後68年経ても、両国間の「対立」を解決しない。東京裁判を「勝者が敗者を裁いたもの」と評価しておれば、決して解決しないであろう。

 当然のこと、木下の認識は一方的ではないか、欠陥がある、と問われ批判されるであろう。被害者「島民」の立場からの批判、被害者の子供の怒りは、劇中では立ち上がっていない、根本的な歴史評価が間違ってると指摘されるであろう。

 実際のところ、島民に対する日本兵の蔑視が劇中で表現されたが、それに対する批判、人間的な感情の回復は、劇中のどこでも問題にはならなかったし、存在しなかった。島民を「素通り」している扱いは、はじめから終わりまで一貫している。「木下がこの見方を覆すだろう」、このように期待して戯曲の進行を見守ったが、何も起こらなかった。期待は裏切られた。

 それでいて、あるいはそれだからこそ、生き残った日本軍兵士、遺族は、そして日本人全体は、自分たちを被害者だと主張するところに陥る、と私には見えるのである。島民の被害を忘れること、騙された自身の反省と責任を忘れることと、一様に自分たちを被害者と描き出すことが「表裏一体」になっている。そこに生き残った戦後日本人の特徴がある。自分たちの身の上にしか目が行き届かない、日本の侵略戦争と敗戦の世界史的な「評価」が欠けているから、被害者意識にとらわれる。

 女漫才師が、「なんであんたは生き残って帰ってきたのか?」と兵士Aを追及する場面があって、日本兵への批判めいた発言をするが、いつ間にか消えてしまい、「騙された」兵士なりの責任や戦争を起こした者への批判にはいたらない。

 登場する生き残った兵士、処刑された兵士F、旅団長、参謀中佐、・・・誰にも共通するのは、自身に処罰が及ぶのを恐れ、何とか処刑を逃れようとしていることだ。生き延びることだけを考えている。自身の犯した「罪」に対する認識と反省には不思議なことに誰も至らない、問題になってさえいない。何とか逃れたい、何とか生き残りたい、このような考えに支配されているだけだ。そのうえで日本軍兵士の誰もが、上級から下級まで誰もが、自分たちは被害者だと考えている。この点は「戦犯の妻」と非難されている処刑された兵士Fの妻も変わらない。

 旅団長は、自身の罪は免れえないとあきらめており、「納得はしないが結果責任を取る」立場である。参謀中佐は、まったく反省などしておらず、BC級裁判の追及から逃れることが日本軍軍人としての「使命」であり、そのための「作戦」を立て遂行するのが任務ととらえている。「軍律会議を行った」という架空の事実をつくりあげ、兵士に口裏を合わさせ、罪を逃れた。戦中も、敗戦してもなお、軍の命令や軍の秩序のうちに、自身の利害を見出し貫き通そうとするタイプの人間である、天皇制の主張のなかに自身の利害を見出し、他者を支配してきたタイプである。戦前にも戦後にも存在した日本人の一タイプである(よく描かれていると思う)。

 島民をスパイ罪で尋問し処刑した下級兵士たちは、命令でやらされた、だから自分には責任はない、と考える。実際に、命令されるまま行動してきた。島民処刑に荷担したことに罪の意識、反省はあまりない。「騙された、知らなかった、仕方がなかった、だから責任はない」という戦後の日本人の多数を成した思考を持つタイプである。

 結局のところ、登場する日本人の持った「認識」からすれば、上から下まで、日本軍兵士、あるいは日本人全員の誰にも責任がなくなる。軍の規律にしたがって行動した、誰かに命令された、誰かに騙された、だから自分には責任はない。こういう責任転嫁の連鎖の連鎖によって、誰も自分には責任はない、ことになる。

 では、いったい誰に責任があるのか、誰がどのように責任を取らなければならないのか、結局のところ誰一人考えない。誰かに責任はあるだろうが、俺にはない、自分は命令に従っただけだ、俺は騙された。責任転嫁の連鎖である。
 こうなると、誰も責任を負わない、無責任体制が現れてくる。戦争責任を問う時に、常の顔をのぞかせる「日本社会の無責任体制」が、ここでも姿を現すのである。最近の原発事故に対する日本政府、原子力村、官僚、マスメディアに至るまでの無責任体制とよく似ている、というより歴史的に引き継いできたものなのではなかろうか。

 伊丹万作が1946年に指摘し批判した戦後日本社会の「無責任体制」が劇中によく描かれている。日本人と日本社会の欠点を、木下順二は意図して描いたのだろうか、それとも無意識に描き出してしまったのか。
 たぶん後者であろう。木下順二が、この「無責任体制」を、問題の根源、戦後日本人の多くが持った欠点と認識しておらず、したがって明確な批判を立ち上げていないのは明白である。それゆえ克服も問題になっていないのである。木下は伊丹万作のようには問題視していない。

 戯曲は、BC級裁判の誤りによって起きた悲劇をベースにしている、その描写に対して作者・木下順二の明確な批判は立ちあがってこない。「BC級裁判はいい加減なもので信頼が置けない、あれはデタラメを行ったのだ!」、「アイツは逃げおおせたのに、俺はつかまった」、不服だ、不満だ、おかしい、・・・・・・・・。この繰り返しである。
 戦争を起こした原因は何であるか、責任はだれにあるか、を放擲しておいて、「アイツは逃げおおせたのに俺はつかまった」という話に流れる。戦争責任をあいまいにした日本人は、日本支配層、日本政府から東京裁判やBC級裁判への非難が出て来る時、これに絡め取られかねないことになる。
 BC級裁判の問題点の指摘は、戦争責任の追及、戦前の軍国主義への批判・反省、天皇制への批判と結びつかなければ、なかなか力にならないし、力強いヒューマニズムを獲得することはできない。しかし作者・木下順二自身はそのような立場を明確にしておらず、BC級裁判はデタラメなものだと、一緒になって主張している。

 ●島民の被害に目がいかない重視しない
 ●日本人の被害者意識に無批判に乗っかる
 ●BC級裁判をデタラメとする
 木下順二のこのような立場なら、結局のところ、何を言いたいのか! 支配層と民衆自身の戦争責任の追求をどのように行おうとしたのか、わけが分からなくなってしまう。
 果たして戦争責任の批判として現代的に有効な生きた批判の内容、方向をもつことができるのか! きわめてあやふやな、力の弱いものになってしまう。

 木下順二が劇中に描きだした現実、小心で運命におびえ震える善良な日本人の姿は、確かにあるリアリティをもって迫ってくる。確かにそんな人は多く存在した。問題は、そのうちにひそむ民衆の側の欠点、民衆自身の戦争責任の追求は、混沌として明確ではなく、意識さえされていないことにある。そのような意味では、当戯曲は未完成であると強く感じた。

 2013年現代に生きる我々は、戦後日本政府と日本社会は戦争責任を果たしてこなかった、侵略の歴史に対する反省と批判が乏しいという、たどってきた経過を「歴史の後知恵」ですでに知っている。もちろん批判はなかなか容易ではないのであって、生き残った日本人の暮らし、意識のうちに、生きた「批判的ヒューマニズム」を立ち上げ根づかせなくてはならない。木下について言えば、少なくとも批判の方向、内容を、戯曲の書かれた1970年当時の民衆の基盤において、提示しなくてはならない。天上から、理念的な批判をしてはならない、そのことは弁えなければならないのだが、そうだとしても木下の示した設定・描写は1970年当時の現実に対する生きた批判が生まれえない枠組み、視点、設定となっている、批判的要素を造形していない、あるべき日本人はどのように生きるのだろうか、考えるに至っていない、のである。

 5)木下順二は、どこに「ヒューマニズム」の発現を求めたのか? 
 
 木下順二は、どこに「ヒューマニズム」の発現を求めたのか? 誰が担うのか? 「ヒューマニズムの棲息場所」を1970年当時の現実、生きた人々のなかに見出していないのではないのか? そのように思う。

 そこで注目するのが、木下がつくり出した「女漫才師」、生き残った戦後日本人にとって、どれほど現実的なのだろう。

 上記の論点での批判において「女漫才師」が独自の主張をしたわけではない。生き残った兵士、Fの妻・希世子らとほぼ同じ考えの持ち主である。「女漫才師」の造形に「批判的ヒューマニズム」が表現されているわけではない。「女漫才師」は兵士Fに寄せるその「想い」を通じて、兵士Fの魅力・人間性を伝える独自の役目を負っているが、彼の魅力は必ずしも十分に描かれなかった。設定からするならば、兵士Fはそれほど魅力的な人物ではない。妻・希世子と女漫才師の関係は、一人の男をめぐる「対立」にはじまり、兵士F への共通の想いからこの「対立」はどのように変化・発展するのか注目するのだが、わかり合って対立は解消するものの、この解消は劇中でたいした意味を持たなかった。あるいは、女漫才師は「神様をとっちめてやろう!」と叫ぶ。兵士Fを処刑した神様(=占領軍や戦勝国裁判の不備)を告発してやろう、という意味なのだろうが、「神様をとっちめる」本当の意味を理解してはおらず、ただ小心な登場人物のなかで一人「大胆な」言葉を発するだけである。結局のところ、いわば『民衆法廷』という対話の場面をつくる上での「舞台回し」に利用されているだけだ。

 兵士の妻は、「戦犯の妻」として戦後の日本社会で「非難」される立場にあって、他の登場人物とは少し違う位置にいる。世間の非難に不満は述べるものの、不当さの根源的意味を自身のなかに持ち告発するわけではない。
 生き残った兵士も処刑された兵士の妻も「女漫才師」も、爆発しそうな不満を持つもののそのはけ口を知らず、したがってどこにも無責任体制を批判するモメントを有していないし、育てることができない。木下順二がそのように「造形」していない。

 ここで性格、立場が違うとされる人物は、処刑された兵士Fだけである。他の日本人とは、「処刑された点」が違う。生き残った兵士たちと妻、漫才師は、「処刑」される身を嘆き、同情する。戯曲中では、「処刑」は重い深い意味であると扱われている。しかし、冷静に考えれば、「処刑から逃れた、逃れることができなかった」、それ以上の違いは特にはない。
 「処刑された、殺された」事実を、登場する生き残った人たちは、奇異な程、とにかく重く深く受け取るらしいのだ。たぶんそれは、「代わりに死んでくれるから」であろう。

 生き残った人たちが「戦争責任とその批判」に目覚めたからではない。登場人物たちが兵士Fの処刑を「重く、深く」受け止めていても、「身代わりに死んでくれる」点で「重く、深い」だけである。したがって観客は、「重く、深く」受け取ることなどできない。
 兵士F だけが性格、立場が違うと設定されているが、あくまで設定されているだけで、木下順二の「意図」に反して、人々を説得する重くて深い意味、大した違いを持っていない。

6)処刑された兵士Fと生き残った兵士・日本人の対比

 この演劇での木下の工夫は、処刑された兵士Fと生き残った兵士たち、妻、女漫才師たちとを対話をさせる場面にある。演劇にしかできない手法であろう。そうやって木下は、いわば『民衆法廷』を出現させ、対話で認識を深めることを狙っている。
 したがって、この対話で木下の批判が姿を現す、明確になるはずと思ったし、期待した。
 生き残った日本人のなかには参謀中佐なぞは登場しない。彼は問題外だから、あらかじめ除かれている、それなりに選別されていることに納得する。登場するのは戦後出発を担う日本人たちなのである。

 生き残った兵士らは、自分たちの代わりに処刑された兵士Fの運命を憐れみ、同情しているから、兵士Fの語りかけを素直に「受け入れ」、「反省」する、兵士F の妻、女漫才師もよくわからないまま「反省」する。懺悔のような観念的な内面的な、どれも同じような「反省」をする。「反省」の内容が違うわけではない。登場させた人物は本質的に描き分けられてはいない。
 この反省の内容は何か? とにかく詫びよう、頭を下げよう、坊主懺悔というものではないか? 

 生き残った兵士たちは処刑から逃れるために一所懸命だった。果たして処刑から逃れることが、戦後出発の目標なのか!? それが戦後処理なのか?! 当然、このように問いが発せられる。木下順二の戯曲はこの問いにどのように答えたか? むろん、無批判に肯定していないかもしれない。しかし、その批判が「観念的」で、あいまいで、生きたものではないこと、力のないことが問題なのである。私の大きな不満なのである。

 戦死した多数の兵士たち、処刑された兵は、あれは不運であって、生き残った兵士らは運がいい。運がよかった生き残りの日本人は、死んだ兵士たちが身代わりになったので生き残ることができた、だから代わりに死んでくれた死者を悼み、感謝する。木下が描いていたのは、そのような懺悔的な、観念的な「反省」により多く傾いているのであって、懺悔的な反省の背後にひそむ欠点をはっきりと指摘するものではない。それが大きな問題、本質的な問題なのである。

 生き残った兵士たちも遺族も、騙されたなりの戦争荷担を反省するわけではない、軍国主義を反省するわけではない、戦争遂行した者たちを追及するわけでもない。ただ、自分たちは被害者なのだと、泣きながら自身の運命を悲しむだけで、「対話」の後もそこにとどまっている。

 このような認識は、現代日本では一つの「常識」に転化している。「国のために犠牲になった若い特攻隊の隊員たちのおかげで、現在の平和がある」、日本の支配層や大手マスメディアが、好んで意図的に流す説明であり、宣伝である。戦争荷担を反省するわけではない、軍国主義を反省するわけではない、戦争遂行した者たちを追及するわけでもない、誰も責任を負わない、犠牲者の悲劇だけがある。
 したがって、このような認識の上に確固たる平和など成立しない。

 確かに彼らは加害者ではない、悲惨な被害者である。ただ、こういう被害者たちはこの先も無力であろう。もう一度同じような状況に放り込まれたら、同じ行動をたどるだろう、「国のために」戦うだろう、支配者に利用され、そして被害を受けるだろう、そのように断言できる。なぜならば、恐れおののいているだけで、決して変わっていないからである。あふれる涙で自身の被害を嘆くという「未来」を繰り返すのだろう。

 そこに戦後出発は存在するか、出発する力は正当に育つか? 「批判的ヒューマニズム」は棲息するか? このように問うなら、「否」としか答えようがない。

 木下順二による台本のこのような処理に、大きく失望したのである。いずれにしてもこの場面が最も重要である。
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7)『神と人とのあいだ』?

 死んだ兵士も生き残った兵士も遺族も、運命に翻弄され、恐れおののいて生きてきたし、この先も変わりはしない。自身の運命をつかさどっているのは、偶然、すなわち「神」である。以前の「神」は、天皇制政府であり、軍隊と上官であったし、天皇と天皇制であった。今では占領軍が「神」である。
 自身の運命を偶然の産物としか認識しない人、戦争の原因を認識し批判を持たない人は、これまでもこの先も目標を持たない、自主的自覚的に行動しない、自身で変革をめざすことはない、運命に翻弄される。変革の欲求を持たなければ変革の意志は生まれない、意志がなければ変革の手段を獲得することもない。翻弄された人たちが自身の運命を顧みるとき、神という偶然とに支配され暮らしていると嘆く。そういう日本人が『神と人とのあいだ』と意識するのである。
 「批判的ヒューマニズム」を自覚した者は、決して『神と人とのあいだ』など意識しない。『人のあいだ』にのみ生きる。木下順二の戯曲には、運命に翻弄され、恐れおののいて生きるのをやめ、運命に立ち向かい自身で考え行動する新しい日本人は登場しない。批判的ヒューマニズム」を立ち上げていない、『神と人とのあいだ』に悩む、無自覚な日本人を描きだしている。

 木下順二の『神と人とのあいだ』の神とは、偶然(=神)に支配され「混迷する愚かさ」を持つ戦後日本人のリアルな姿を意図的に表現している、というアイロニーなのではないかと当初、私は真面目に思ったのである。これも違っていた。この点、木下順二はきわめて鈍かった。したがって、この付け足しは木下順二に対する「皮肉」に転化した。

8)終わりに

 1970年当時、木下順二は、日本軍国主義の復活、危険な傾向を感じ取ってこの戯曲を構想したのだろうし、この戯曲で、日本の支配層と民衆自身の戦争責任の追求を試みたことは、評価する。またそこに登場する日本人たちは、戦争の被害と苦しい生活に耐えながら善良であって、それでいて小心で怯えていて「運命」に翻弄されている、その造形、描写にはリアリティがあるし、ある「親しみ」さえ覚える。我々はそのような日本人あいだから生まれている。

 問題は、その「表面のリアリティ」に終わってしまい、それに対する生きた批判、「批判的なヒューマニズム」、「奥底のリアリティ」が、正統に立ち上がってきていないところにある。
 したがって、戯曲は「表面のリアリティ」のなかから生まれそれを批判し食い破る「奥底のリアリティ」を立ち上げ、その生きた二つの要素がひっぱり抗争し合う描写・構成に深化させなければならない。そうやって初めて生きた力を生み出すし、観客に自身の問題として訴えかける力を獲得する。

 花田清輝風に言えば「楕円の思想」である、楕円の二つの焦点が引っ張り合い相闘いながら、楕円の線を描いていくという構成・描写が、生きた人々の暮らしと認識の描写となるだろう。あるいは「総合芸術」、すなわち二つまたは複数の要素が自己を主張しあい闘争し、そのうえでそれぞれがそれぞれの論理で変化発展し統一的内容を獲得し、新しい現実を描き出すという水準に一歩踏み出すことが必要なのである。

 『神と人とのあいだ』は、「批判的リアリティ」が十分に生命を獲得していない。木下順二は、処刑された兵士F や尋問中に死んだ島民の子供によって、その「奥底のリアリティ」を明確に立ち上げることをしなかった。最大の被害者である島民からの批判を立ちあげることに思いも至らなかった。

 生き残った日本人、特に戦地にいなかった者は、日本が仕掛けた戦争の実態、その加害と現地の被害の実態がなかなかわからないし、知らされてこなかった。見えているのは「日本人の被害」=「働き手を兵に取られた被害、空襲と原爆による被害、戦中の困窮生活による被害」である。それだけでも十分すぎるくらい悲惨な被害を受けたのではあるけれども、戦争の性格を深く認識するうえで、そして戦後の日本人の戦争責任を問う上でやはり問題になる点である。

 この島の日本軍は、旅団長である陸軍少将を筆頭に、海軍大佐の民政部長、陸軍中佐の参謀による一個旅団、二個歩兵連隊の構成とされるから、当初は5,000人規模の軍隊であったと推定できる。相当大きな島であるし、他の島民集団もいたと推定される。日本の軍隊についてきた軍人・軍属、関係する民間人も多数いたはずである。「慰安所」があり「慰安婦」さえいた可能性さえある(島民の女が裁判で、日本兵が毎晩通ってきたと性暴力を暴露する場面がある。木下は、連合国判事や傍聴者に日本軍兵士を冷笑させて済ませた。日本軍の犯罪とはとらえていない)。
 戯曲が描くのは敗戦直前の時期、すでに南方の島に取り残され、軍は海軍将校と陸軍将校が混在しており、すでに当初の旅団の体をなしていないようだ。海上には多数の敵艦が観察され、来襲は時間の問題である。その前に島の治安作戦、および軍規引き締めのため、大スパイ事件をでっち上げ島民を処刑した、しかし、敵艦来襲、戦闘の代わりに敗戦が来たとされる。

 生き残った日本人に、戦争の性格と被害を広く深く認識させ覚醒させるために、すなわち「奥底のリアリティ「を立ち上げるためには、兵士F、島民の子供をより深めるべきではなかったか、被害を受けた島民を造形し登場させるべきではなかったか、あるいは旅団でひどい扱いを受けた朝鮮人軍属、民間人あるいは「慰安婦」を造形すべきではなかったか。そうやって「表面のリアリティ」とともに、これに対抗し揺るがす「奥底のリアリティ」を立ち上げ、生きた二つの要素がひっぱり合いで、戦争の姿を奥底から描き出し、戦争責任を明確に意識させるべきではなかったか、そのことで日本人の戦後出発を提示する構成に深化させなければならなかったのではないか、生き残った日本人の多くが持っていた、上述の三点の欠点を指摘する批判的視点を提起できたのではないか。

 そうして初めて、善良ではあるが運命に翻弄され小心で怯える生き残った日本人は、自身の視野の狭さを自覚し克服する契機を獲得するのではないか。またそこに自分の姿をみてとった観客は、自身の内部で「対話」を試み、演劇に深く参入するのではないか。そのように思う。
 (もちろん、単に登場させる人物、造形する人物の「種類」の問題ではない。作者の視点さえ明確であれば、兵士F や島民の子供の造形からでも、「奥底のリアリティ」を立ち上げることはできるだろう。あくまで例え話である。)

 このような感想は、すでに「改作」の具体的な内容・方向に一歩踏み出したもので、少々書き過ぎであるし、夢想的である。そのように自覚する。ただ、当戯曲への私の期待と批判をより明確に表現しようとしてこのような言い方になった。
 また、感想であったとしても、もちろん、あまりに遅いことも自覚する。2006年に木下順二はすでに亡くなっている。もっと早く言っておきたかった、そういう気持ちが残る。    (文責:児玉繁信)

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大逆事件 映画「100年の谺」を観る [映画・演劇の感想]

 大逆事件 映画「100年の谺」を観る

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<映画のチラシ >

 9月14日、大逆事件を描いた映画『100年の谺』を観た。
 残された遺品、新たに発見された資料などを丁寧に取りあげ、大逆事件の全体像を描き出そうとするいい映画だった。

 大逆事件について、戦前においてほとんど秘密理に処理されたし、処刑された被害者の葬儀も墓を立てることも許されなかった。民衆の側も巻き込まれる危険から触れることができなかった。「人為的な断絶」が生じ、歴史上の、過去の事件として扱われてきたし、その傾向は、戦後も長く続いた。

 そのようななかを、事件の関係者、遺族は息を潜めて生きてきたのである。(最近、坂本清馬の生涯と闘いを描いた鎌田慧『残夢』、刑死者・大石誠之助の甥・西村伊作の生涯を描いた黒川創『きれいな風貌』などが出版された。)

 刑死者の一人、森近運平は妻への遺書のなかで、「100年後、歴史家が事件の真相を明らかにしてくれるだろう」と残しているが、果たして私たちは事件の真相を明らかにし、解決しているのだろうか!と問わなくてはならない。
 戦後、無期懲役刑を生き残った坂本清馬と森近運平の妹・細井栄子が起こした大逆事件の再審請求を、1965年最高裁は棄却した。現在もなおそのままである。

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タルデンヌ兄弟『少年と自転車』を観る [映画・演劇の感想]

 タルデンヌ兄弟『少年と自転車』を観る

 1)原初的な表現

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<パンフレットから>

 タルデンヌ兄弟の映画は、せりふよりも人のとる行動、表情、動作の描写を重ねる。行動や態度・表情による表現を、心がけている。それが人にとって「原初的」であり、生活のなかで起きるから、と考えている。確かにそうだ。何もかも言葉で説明するかのように、実生活においてせりふが発せられるわけではない。

 新藤兼人『一枚の手紙』は、せりふはまるで人がしゃべっているようでない、会話として成立していない。脚本は、新藤自身の頭のなかで成立している論理であり、完結している。論理展開がそのまませりふになってしまい、説明に転化している。その不自然さに脚本家・新藤兼人は気づいていないように見える。意図は理解できるだけに、ある「残念さ」が残る。

 話がそれた。わざわざ新藤兼人の『一枚の手紙』と比べなくても、『少年と自転車』のよさは際立っている。映画は、行動や動作の描写で一瞬にしてある感情や人間関係を表現することを、あらためて教えてくれる。

 人は一人ではなく誰かと一緒に生きてるという原初的な関係を、タルデンヌ兄弟は現代社会のなかで表現したいようなのだ。シリル少年は行動、表情で、彼の心のなかをよく表現している。
 父親から捨てられたことを知った少年が車の中でけいれんを起こす場面など衝撃的だ。そこには何のセリフもなかった。

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 2)登場人物は普通の現代人

 それから、出てくるすべての人物が、立派でもないがそれほど悪い人物でもないのも、特徴である。人に対するタルデンヌ兄弟の考えなのだろう。
 主人公のシリル少年に強盗をやらせるチンピラ青年も、家では寝たきりの婆さんの世話をしている。少年と同じように3年間ホームにもいたことがある。
 シリルの父親も、子供を捨ててしまうのだから立派な人間ではないが、金がなくていっぱいいっぱいの生活に追い込まれていることはわかる。金には困っていたが、シリルが強盗をして得た金を、受け取りはしなかった。
 どれもこれも、立派ではなく、何か欠けたところある、危うい、何かしら過ちを犯してしまう現代人の姿である。欠点を持つ、むしろいわば普通の生きた人たち。ひょっとしたら、俺のことか、あるいは俺の周りにいるあいつのことではないかと思わせる。

 タルデンヌ兄弟の映画に登場する人物は、チンピラもいるしホームレスもいる、犯罪者もいる。しかし、どの人物もわれわれと少しも違わない。兄弟は、「同じさやのなかのえんどう豆だ」ととらえる。
 実在する生きた人間を描きたい、という兄弟の確固たる思想がある、それは人に対する信頼でもある。そのような見方こそ、大切であり適切なのだろう。

 3)人が「類的性質」を発揮する

 サマンサなる女性は、ほとんど偶然からシリルの里親になる。シリルを父親に会わせに行ったり、自転車を買い戻したりしてやる。自分でも思いがけない行動をとってしまう。美容師であるサマンサがシリルと生活するその風景もいい。欠点も持つ普通の人が「類的性質」を発揮するのも、またありうる、タルデンヌ兄弟はそう主張している。
 サマンサは、どうしてシリルを受け入れようとしたのだろうか。「本人にもよくわからない、でもこうなった」。そういうことはあるから、と描いている。

 人をここまで動かす「衝動力」はなんだろう。サマンサは決して聖人なのではない、「普通の人」。監督は、「こういうこともある」と描きたいらしい。危うい人も多いけれど、同時に「普通の人」のなかに、「類的性質」が現れることもある、と言いたいようなのだ。兄弟の人類に対する「信頼」である。

 サマンサとしても、誰かとつながって生きたい、支えあって生きたい欲求がの表現でもあるらしい、それはとても自然なことだ。ただ、そのサマンサの欲求は「意図的に」描かれていない。
 タルデンヌ監督は、あえて描かないようにしているらしい。安易に描くことができなかったのかもしれない。よくわからない。余韻というには少々大きい、疑問を残したままにしている。
 前々作『ある子供』で、ブリュノから赤ん坊を売ってしまったと聞いたとき、ヒロイン・ソニアは卒倒して倒れる。あれは卒倒する以外の表情や演技など、思い浮かばなかったからなのだろう。それと似ている。タルデンヌ兄弟は、サマンサの「類的性質の発揮」を説明しない。
 
 もちろん、タルデンヌ兄弟の考える通り、現実生活のなかでは、ヒューマニズムなる思想が、そのまま服を着て歩いてはいない。いろんな欠点を持った「普通の人間」が、自身の暮らし、周りとの関係の認識や批判から、「類的性質」を発揮する。
 でもやはり、サマンサなる人物が行動をとるに至る衝動の背景は、描かれるべきだと思うのだ。
 
 意図的に削ぎ落としている。描こうとして、余計な説明となると恐れたのか、それとも描けなかったのか、よくわからない。問題は、サマンサの「生きている姿」として、よく描けているかどうかである。このいい映画のなかで、少し「もやもや」するところである。

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 4)小さな不満

 これまでいくつかタルデンヌ兄弟の映画を観た。兄弟は、装飾しない、説明しない、むき出しの現実をそのまま提示する、逆に「作為」を感じさせる場面を極端に嫌う、それが特徴なのだ。

 この映画は、これまでと違って音楽もついていて、何かしら少し洗練されている、その分だけ監督の「観念」が前に出て、「むきだしの現実」が後退した感じが少しある、「こさえもの」感が残る。 (文責:児玉 繁信)


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韓国映画「ムサン日記ー白い犬」を観る [映画・演劇の感想]

 6月5日、渋谷で映画「ムサン日記〜白い犬」を観た。
 なかなかいい映画だった。
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<映画のパンフレットから>

 1)描き出してる風景がいい
 冒頭のシーンがいい。主人公・スンチョルは、開発地区と呼ばれている地域に住んでいる。ソウルのどこからしい。掘り返された巨大な穴とだだっ広い廃墟が広がる。そのそばに残った貧民地区に、主人公のすむ安アパートがある。巨大な穴の淵にある一本の道をのぼり、スンチョルはアパートへ帰っていく。スンチョルの仕事はポスター貼り。猥雑なところで、暮らしている。
 現代韓国の姿を見た気がした。

 映画が映し出す風景は、これまで「韓流ドラマ」では見たことのないものだ。「韓流ドラマ」は、近代的な会社で、事務所で、ソファーのあるマンションでアメリカ帰りの人物たちの、しゃれた会話が繰り広げられる。欧米風の洗練されたファッションとその暮らしぶりが描かれる。ほとんど「生活の匂い」がしない。

 それに比べて、「ムサン日記」の描く風景はどうだ。
 暮らしている場所は、猥雑で、未完成な街、壊しながら建設している。住んでいる者の都合で開発が進むのではない、それどころか住民はまったく無視されている。存在さえも無視されている。彼らは新たに建設される街の主人公ではない。

 この描写だけで、ある水準を「突き抜けた」立派な映画だと評価できる。監督が見てるもの、見えている世界であり、「韓流ドラマ」の見過ごす世界である。監督の視点は、極めて貴重だ。
 映画はこうでなければならない、このような風景をこそ映し出さなければならない。

 風俗ポスターを貼り生活費を得るスンチョル、脱北者である。ポスター貼りの仕事は雇い主に支配され、指示されるがまま従わなければならない、でなければ「明日から来なくていい」と言われる、「ポスター貼り」にも他の「業者」との間に「縄張り争い」があり、「ライバル」の眼を避けて貼らなければならない。見つかると殴られ、蹴られる。スンチョルはなぜか抵抗しない。
 心を許せる相手は、ひろってきた「白い犬」だけ。
 生きていくことはなかなか難しい。
 
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<風俗ポスター貼りの仕事>

 脱北者・スンチョルは、仕事にありつけない。パク刑事が職を紹介する。しかし、住民登録番号に記された番号の一部、125……で、脱北者とすぐにわかる。誰も雇いたがらない。現在、2万人以上の脱北者が韓国で暮らしているというが、その姿は韓国社会の「表」に現れてこない。

 スンチョルの脱北者仲間たちが、互いの仕事のことを話す場面がある、話題は、時給のこと。時給4000ウォン、5000ウォン、確かに安い。彼らが就いているのは時間給の仕事、アルバイトの類の不安定な低賃金労働。なかなか金がたまらない、しかし、金がなくては「人間的な生活」を送ることはできない。脱北しても、金を得なければ、普通の韓国市民になることはできない。

 2)韓国・格差社会を告発する

 映画は何度もスンチョルの歩く姿を映し出す、多くは彼の背中を映す。アパートに歩いて帰る時も、街中を歩きまわる時も、ポスターを貼る時も。観客はスンチョルの背中に、彼の「悲しみ」を観てとる。韓国社会に入り込むことも溶け込むこともできず、誰からも保護されない、法も守ってはくれない、半無法状態のなかで孤立し、ただ生きているスンチョルの姿である。孤立した「脱北者」のものである、また格差社会韓国の孤立した若者のものでもある。スンチョルは、現代資本主義社会が生み出した格差社会の底辺にいる孤立した若者の一人でもあり、彼らの抱える「悲しみ」もおなじく抱えている、その「現実」をこの映画は、いきなりつかみ出して見せる。

 「韓流ドラマ」が描きださない現代韓国の姿である。
 むろん、映画は、新自由主義のもたらした格差社会・韓国を、セリフで説明したり批判したりはしない。そのような設定もセリフもない。ある脱北者の暮らしを描き、脱北者の置かれている実状を映し出すだけだ。しかし、映画は、韓国・格差社会がスンチョルをどのように扱うかを描くことで、現代韓国社会を鮮やかに批判し告発している。これこそ「映像の力」だ。

 3)ヒロイン

 誰からも受け入れられず、孤立した生活を送るスンチョルは、何かしら人とつながりを求めたいのだろう、教会に通う。そこで聖歌隊で歌うヒロインにあこがれる。

 ヒロインは父親の経営する小さなカラオケ屋で働いていた。そこはスンチョルのすむ開発地区に近く、客は酔客やホステスなどが多い。スンチョルはこのカラオケ屋で働くことになる。ヒロインがスンチョルに、「2本の缶ビールを、3つのコップに注ぎ、ビール代を稼ぐ」ように教える。なるほど、彼女はこうやって稼いでいる。いいシーンだ。聖歌隊で歌うヒロインは、聖女ではない、彼女も生活を抱えている。彼女は、カラオケ屋の稼ぎで暮らしていることを恥じていて、教会の友人には決して言わないように、スンチョルに言いつける。
 こういうことは誰もが抱えていることだ、生きていくことはなかなかきれいごとですまない。こんな描写にも、監督の確かな「眼」をみてとることができる。信頼できる。

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<2缶のビールを3杯のコップに!>

 4)脱北者仲間・ギョンチョル
 脱北者仲間・ギョンチョルは、スンチョルの唯一の友人であり、スンチョルは彼の部屋に住まわせてもらっている。ギンチョルは、「脱北者」仲間の親族への送金を斡旋することで金を稼いでいる。なかなか目端の利く男だ。
 反共団体の講師に招かれ講演し、講演料をかせぐ。ギョンチョルにとっては、「反共教育」は金かせぎの場である。その現実を、映画はそのまま映し出す。
 ギンチョルもスンチョルも、韓国に来て、何とか金を稼がなくては生きていけない点で、同じ境遇にあるし、同じ種類の人間であって、それほど大きな違いはない。
 ただ、スンチョルは、ギョンチョルのように要領よく生きることができない。

 なぜ要領よく生きていけないのか、孤立してきたのか。
 スンチョルは、教会の仲間に、脱北前に隣人と食糧の奪いあいで争い、誤って殺してしまったことを告白する。ヒロインと教会の仲間は、驚きながらも、スンチョルの孤独な心を知り、そして受け入れることにする。受け入れる仲間を得て、スンチョルは孤立した生活から抜け出すようなのである。
 
 5)白い犬
 映画の最後のシーンをどのようにとらえるか?
 ギョンチョルの「隠し金」を手に入れたスンチョルは、ギョンチョルに渡すため待ち合わせ場所の「バス停」に向かうが、ギョンチョルの姿を認めるや、スンチョルはバスの椅子に沈み込んで姿を隠し、そのまま通りすぎてしまう。

 ギョンチョルの「隠し金」を「横領」してしまうことにした。ギョンチョルが何度も何度もスンチョルに言っていた通り、「要領よく生きていく」ことにしたのである。
 その金で、スンチョルはおかっぱ頭の髪を切り、いつもウィンドウで眺めるだけだったスーツを買い、「変身」する。その「変身」を、ヒロインは歓迎してくれる。
 要領よく生きることで、スンチョルは何か失った、そして、韓国社会になじんでいった。カラオケ屋でスーツを着て、すなわちとても脱北者には見えない格好をして、働く。

 そんな時、カラオケ屋の外につないでいた白い犬・ぺクが、スンチョルがビールを買いに行っていた隙に、道路に飛び出し車に轢かれて死ぬ。死骸を見つけ、たたずむスンチョル。長い時間たたずむが、最後にペクを放置し、その場を離れる。脱北したあと、唯一心を通わせた「白い犬」と別れるのである。

 これは何を表現しているか?
 スンチョルは確かに変わった。「白い犬」に象徴される何かと、訣別した、あるいは捨てた。そして韓国社会になじんで生きることになった。目端が利くギンチョルとあまり変わらない変身を経る。そのことの是非、良し悪しは、観客の判断にゆだねられて、映画は終わる。

 といっただけでは何か漏れたような気がする。
 現代韓国社会で生きるとは、このようなことなのだと、監督は映画の最後において示す。映画を通じてこれまで主人公・スンチョルに自身の感情を重ねて観てきた観客に、スンチョルの現実的変化を示してみせ、「受け入れるかい」と問うているのである。 監督は、最後においてなお「批判的」視点をもぐり込ませているのである。 (文責:児玉 繁信)
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亀井文夫監督「世界は恐怖する」 [映画・演劇の感想]

亀井文夫監督「世界は恐怖する」

 亀井文夫監督「世界は恐怖する」(1957年制作)を見ました。
 当時は、米ソ英仏の大気中海中の核実験が頻繁に行われており、その実験による放射能の影響が世界中に広がっていた時代です。
 核実験停止が世界中の人々から叫ばれ、日本でも原水爆禁止運動が広がり、1963年には地下実験を除く「部分核実験停止条約」が締結されました。

 映画は、目には見えない放射線の恐怖を丁寧に説明しようとしています。
 「戦ふ兵隊」から予想した亀井文夫の「叙情」はまったくといっていいほど現れません。とことん科学的に厳密につくろうと決意し、ドキュメンタリー形式としたのでしょう。亀井文夫の特徴の一つなのでしょうか、実直な印象を受けます。
 現代でもなお「新しさ」をもった作品です。

 「摂取したセシウム137の70数%はすぐに排出されるが、20数%は体内に残り、内部被ばくをもたらす」ことを、動物実験の過程を丁寧に写し、証明して見せています。
 他方、福島原発事故後でもなお、「セシウム137を摂取しても、大部分は排出されるから、内部被ばくは問題ない」と堂々と発言している大学教授がいるのです。
 
 映画「世界は恐怖する」の制作協力に、多くの大学教員が名を連ね、各大学の研究室で放射線を測定する姿が映されます。夏なのでしょうか、研究室ではみんな肌着のまま仕事をしています。素人なのでよくわかりませんが、測定設備、測定器なども、現代にくらべると、はるかに貧弱に見えます。その測定する姿に、ある熱意を感じます。

 もちろん当時ではあっても、物理学や原子力工学に関係する当時のすべての学者・研究者が、映画製作に協力したのではないでしょう、協力した人だけが映画に登場しているのだろうと、想像します。

 その姿に「いまだとり立てていうほど特権的でない」、「民衆の生活といまだ遠くはなれていない」当時の大学と研究者の姿を見た気がしました。当時は大学教員、教授といえども、核兵器、放射能被害を告発する人たちが多くいたのでしょう。「集団的な熱意」を感じます、核兵器、核実験に対する批判、怒りが共有されていたことを画面から感じます。

 現代とは大違いです。3・11以後、テレビに登場し原子力を語る大学教授は、誰もが「問題ありません」とくり返し、原発と東電を擁護しました。堂々と嘘をつき通しました。この違いにもあらためて驚きながら観たのです。(文責:玉)

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「田中さんはラジオ体操をしない」を観る [映画・演劇の感想]

 「田中さんはラジオ体操をしない」 

 沖電気による不当解雇を闘いつづけている田中哲郎さんを描いた映画。オーストラリアのマリー・デロフスキー監督 2009年作品。
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<映画のチラシから>

  どうして田中さんは解雇されたのか?
 NTT民営化したころ、NTT関連企業であった沖電気にもその影響は及び、NTTから社長を迎え大幅な合理化・人員整理をおこなった。その経営方針を強引に進めるため、社員すべてに有無を言わさず会社に従わせる職場に変えてしまった。ラジオ体操もその踏み絵の一つで、始業時間前のラジオ体操に全員参加を強要する。時間外だから何の義務もない。にもかかわらず、ラジオ体操を拒否する者は会社の意向に従わない奴として、差別しいじめて、仕事から会社から排除する。このような人権侵害、不当労働行為を沖電気は堂々はやってきたのだ。しかもいまだに反省さえしていない。
 田中さんは解雇された。それ以来毎朝、門前で抗議行動をしている。

 日常を淡々と描く
 そんな背景があるのだけれど、映画はむしろ淡々とした描写を重ねている。描き出しているのは、門前での抗議行動を含めた田中哲郎さんの毎日の生活であり、家族であり、まわりの人たちとの日常である。田中さんの家族も映し出す、「テッちゃんは頑固だからぁー」という田中さんへの信頼が読みとれるお母さん(義母)の表情がいい、一見して実直なことかわかる。奥さんもどちらかというと楽天的な感じ。田中さんが引っ張っているところはあるようだけれど、描かれている家族のつながりがいい。
 要するに、映画は田中哲郎とはどんな人かを周りの人たちとのつながりを通して描き出そうとしている。そうして彼が、おおいに頑固だけれど、いかに人間的で思いやりのある魅力的な日本人の一人であるかを描き出しているのである。
 映画のよさは、こんな田中さんの描写を通じて、日本の民主主義が毎日どのように支えられ守られているか、奮闘しているかを、生きた姿で描き出しているところにある。
 よく見てくれ!こんな日本人もいるんだぞ! 世界の人々に向かって叫びたい気持になる。

 民主主義にも命がある!
 民主主義だって命があるのであって、毎日エネルギーを得なければ生き続けることはできない。多くのいろんな人の継続した努力によって生命をつないでいることを、この映画は教えてくれる。
 田中哲郎さんは言う。「僕は難しいことは何もやっていない、僕の主張し行動しているのは簡単な当たり前のこと。おかしいことをおかしいと言いつづけてきただけ。」もちろんそんな簡単なことではないけれど、こんなふうにいう田中さんがいい、本当に魅力的だ。高尾の地で日本の民主主義に新しいエネルギーを毎日注いでいる。

 いつしか日本の民主主義は、会社の門の前で眠り込んでしまうようになった。門の中では民主主義はなかなか棲息できない。会社は、個々の労働者に「全人格的なコミットメントを要求し続ける」(田畑稔)。全人格をもって会社業務に関与することを求め続ける。そうすると、一つ一つの行動を通じて、一段階一段階、その人の考えが変わり会社人間ができあがってきて、その分だけ民主主義が居場所をなくすのだ。

 高尾の沖電気正門前の電柱に、田中哲郎さんはお金を払って広告看板を取りつけている。「いじめなどよろず相談に応じます」。それを指さし田中さんは言う。「ここは僕の暮らしている場です。ここで暮らしているんです。」これも美しいいいシーンだ。
 田中哲郎さんの民主主義は、まっすぐな電柱よりもまっすぐに立っている。門をはいるときに沖電気の社員一人一人の民主主義が、萎縮しないように、眠りこまないように、毎朝背中を押しているのだ。
 
 人らしく生きよう!
 田中さんのまわりにはいろんな人が集まってくる。根津公子さんもその一人だそうで、「君が代」斉唱で起立を拒否した先生である。最近は学校でも校門を過ぎると民主主義が眠らされることになった。根津さんは、出勤停止処分とされた時、田中さんにならって門前に立つことにしたと言う。田中さんの民主主義はスクっと立っているので「伝染する」人もいると、これまたスクっと立っている(卒業式では立ち上がらない)根津さんが言うのだ。このような人のつながりがいい、その描写がいい。 

 新宿Ks Cinemaで7月2日から上映されている。 (文責;児玉繁信)
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土屋トカチ監督 『フツーの仕事がしたい』を観る [映画・演劇の感想]

土屋トカチ監督 『フツーの仕事がしたい』を観る 
2008年


 この映画の評判は聞いていたものの、なかなか見る機会をつくることができなかった。レイバーネットのスケジュール案内に12月4日上映会を見つけ、やっと見ることができた。

 単純なつくりは映画なのだが、いきなり見る者の心を「わしづかみ」にする。2008年の生きた日本社会の現実を、そのまま目の前に示すのだ。立派な映画だと思う。この映画のよさは、いくつもある。

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 <映画のチラシから>

 1)何よりも、生きた現実をとらえているのが、いい
 何よりも「よさ」の第一は、現代日本社会に急速にそして確実に広がってきた派遣労働など不安定雇用長時間労働者の置かれている「悲惨な現実」をとらえ再現していることだ。

 映画が追いかけるのは、皆倉信和さんというセメント輸送の運転手。見るからに真面目そうな、おとなしそうな人である。出来高払い制を押しつけられ、厚生年金も健康保険も雇用保険もなし。その結果、月552時間にも及ぶ長時間労働を強いられても手取り20万円ちょっと、心身ともボロボロの状態に追い込まれ、文字通り生きていけなくなる。労働組合に入ろうとするや、会社が組合脱退のため嫌がらせする、母親の葬儀にまで駆けつけて嫌がらせをする。なんとか生き残るために闘おうとする皆倉さんの姿をとらえている。

 月552時間の労働とは、30日間働きづめでも一日18時間以上の労働だ。「なんでここまで」というくらいすさまじい。現代日本社会は、小泉改革によって規制撤廃され自由競争にさらされ、「格差社会」になってしまい、労働者の権利や生活は軽んじられ、極限の状態になるまで働かされる関係ができあがってしまっている。
 皆倉信和さんというセメント輸送の一運転手の話であるけれども、私たちは背後に同じような低賃金長時間労働に追い込まれた大量の皆倉さんを、見つけることができる。また、見つけなくてはならない。

 映画は、皆倉さんの個別な姿を描きながら同時に、それと同じ大量の生きた不安定雇用労働者の姿をはっきりと見つめなくてはならないことを、まっすぐに訴えている。そうだ、その通り、現代日本社会の深刻な姿をしっかりと認識しなければならない。

 この映画「フツーの仕事がしたい」は2008年にできたそうだけれど、現代日本社会は映画の描く現実に、さらに近づいているとさえ言えるのではなかろうか。
 そうだから、この映画はいまなお新しい、かつ強いメッセージを、発し続けていると言えよう。多くの働く日本人に、自分と自身の暮らしを見つめ、人間らしい暮らしを回復するにはどうしたらいいのか、問い続けている。

 2)単純なつくりは映画だが、いきなり心を「わしづかみ」にする
 よさの第二は、土屋トカチ監督のしっかりとした視点であろうか。「悲惨な現実」をそのままとらえることは、簡単なことに見えても、そんなに簡単ではない。「そのままとらえる」とは、例えば、時間軸に沿ってそのまま映像を連ねることでは、もちろんない。
 描写において土屋監督は、ことさら強調したりしていない。むしろ淡々と描いている、ように見える。

 監督は、皆倉さん、および皆倉さんのような非正規雇用で働く人の気持ちから、進行する現実をしっかりととらえていて、揺るぎがない。監督の「志」がいい。そこに映画の「誠実さ」が生まれているのであり、観客は信頼をよせることができる。

 また筋立ても比較的簡単で明瞭である。たぶん、「余計なこと」を意識的に省いているのではないだろうか。たぶんそうだろうと思う。なんでもかんでもやたら詳しく映し出すようなことはしていない。そのことは監督の理解で再構成しているということだろうし、監督の視点、立場を示していることを意味する。そして、われわれ観客は監督のとらえ描き出した現実を観て、「ああ、そうだ」とあらためて鮮やかに再認識するのである。
 要するに、真実がむきだしで描かれていて、それゆえに力強い。

 3)普通に働く日本人の暮らしとその良さを描く
 よさの第三は、皆倉信和さんなる人物像にかかわる描写にあるのではないだろうか。映画を観て考えたのは、こんな人こそ現代日本人の一つのタイプではないか、ということだ。皆倉信和さんのような日本人はむしろ多いのだろうと思う。非正規雇用や日雇い派遣、下請け孫請けで働く現代日本人の一つのタイプであろう。
 多くの人が思うだろう。あれは俺のことではないか。あるいは俺の身の上にも起きている、あるいはいずれ起きることではないか。

 孤立していて、おとなしくてまじめで、あまり文句も言わずに働いてきた。何かが起きてもそれが当たり前だと思い我慢して暮らしてきた。反抗することなど思いも及ばず、どこまでもやさしい気持ちを持ち、言われるまま何かしらびくびくしながら生きてきた。もちろんそれでいいわけではない。
 誰もが自身の権利を主張したり、文句を言うわけではない、これまで自分の権利を主張してこなかったし、そもそも主張する術など知らなかった。こういうタイプの日本人は、現代日本社会ではやはり多いのだろう。

 だから、映画の最初の場面での皆倉さんは、何かしら頼りなく見えてしまうところがある。そんな皆倉さんが、変化を見せる。心身ともに疲労しどうにもならなくなって労働組合に相談する、すると会社から組合脱退のため嫌がらせを受ける、そんな時でも声を荒げさえしないが、動揺しながらも懸命に闘おうとする姿を見せる。
 そんなところにこの人の人間性、この人の誠実さがくっきりと現れてくる。映画は格差社会に苦しむ現代日本人が発揮するであろう、あるいは獲得しなくてはならないであろう人間性、誠実さの一つの姿をとらえる。これは確かに現代に生きるわたしたちが持つべき、尊重すべき特性ではなかろうか。

 病気になった皆倉さんが、「今後どうしたいですか」とインタビューされ、「フツーの仕事がしたい」と応える。映画に題名になっている。本当にそう思っているのがよくわかる。ささやかな希みであるものの、同時に実に「人間的な」叫びである。非正規雇用や日雇い派遣、下請け孫請けで働く現代日本人にとって、これ以上説得的な言葉はない。

 4)ゲリラ的上映こそふさわしい
 映画のなかで、運送会社の発注元である住友大阪セメント社前での抗議行動時に、もう夕方を過ぎていたのだろう、天幕らしきものを仮設し、この映画の一部を上映して、住友大阪セメントの社員に見せつけるシーンがある。
 映画が、労働実態の暴露や権利を主張するための武器になっていることをそのまま映し出す。むしろそのように使われることが当たり前のように、監督はとらえている。

 この映画は映画館で見るのもいいが、天幕に映して観るのがまた、ふさわしい。見たい者が自主的に集まり公民館などを借りてみるのに、ふさわしい。われわれの映画だ。

 5)つけくわえて
 上映終了後、土屋監督を囲んでの懇親会があって、いくつかのおもしろい話も聞いた。
 映画の批評ではないが、おもしろかったので書き加えたい。

 労働組合加入に嫌がらせをする「工藤」なる人物は、マージャン屋を経営しており、引き連れてきた男たちはマージャン屋の客であり、工藤に運転手の仕事を紹介された者たちだそうだ。社長や工藤は、口入屋をやっていて、実際は運転手の給料からピンハネをして稼いでいる。特に暴力団とか労務屋ではなく、「素人」だそうだ。
 逆に言うと、普通のマージャン屋のおやじが、規制緩和によって、口入屋をやるようになったのであって、ケン・ローチ監督の「この自由な世界で」の女主人公に相応する人物なのである。世界中で新自由主義による同じような現実が進行しているので、図らずもこんな人物をとらえ、描いてしまったということだ。

 この映画は、すでに国際的にも評価されていて、すでに海外で上映会を行っている。土屋監督によれば、客の反応が国によって違っていたのがおもしろかったという。
 ヨーロッパ諸国では、身体を壊すまで働く皆倉さんの姿をみて、「なんでそこまで我慢するのか」という皆倉さん個人に対する疑念、批判の声が上がったという。ヨーロッパの労働者はまだそこまで孤立したり、追い込まれたりしていないのであろう。アメリカでは皆倉さんを雇っていた会社、労働組合脱退工作をした会社がつぶれたと字幕が出たシーンで歓声が上がった、勧善懲悪と受け取ったようだという。
 誰しも自分を基準に理解しようとするから、当たり前の結果なのかもしれないが、いずれにせよ、欧米の観客はいまだ日本に広がる非正規雇用や日雇い派遣、下請け孫請けの深刻な現実を、よく理解していないということに他ならない。

 そのような意味では、現代日本人の「現実」を、さらにもっともっと描き出さなければならないということなのだろう。

 それから、定時制高校で上映会を行ったときのこと、上映前には「なんで映画なんぞ見なきゃいけないのか」などとザワザワしていたが、はじまってしばらくすると会場は静かになりみな食い入って観てくれた、上映後、家族や知り合いに起きた皆倉さんと同じような事例や経験の話をして感想を述べ合ったという。
 定時制高校生にとっては、現在と近い将来の自分たちの姿だったのだろう。

 定時制高校生ばかりでなく、多くの働く日本人が、現在と近い将来自分たちの姿として新ためて認識しなければならないのだろう。映画は、そう教えている。(文責:児玉 繁信)

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土井敏邦監督 ドキュメンタリー映画 『沈黙を破る』を観る [映画・演劇の感想]

土井敏邦監督 ドキュメンタリー映画『沈黙を破る』を観る
2009年作品 シグロ


 「沈黙を破る」とは、イスラエル兵士の間から生まれたイスラエル軍による占領政策の実態を暴露・告発するグループの活動であるという。

 興味深いのは、この兵士たちの多くは敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、イスラエル国民、ユダヤ教徒の義務として当然のごとく兵役についたことだ。兵役前に、特に疑問を持ったり、兵役拒否を考えていたわけではない。兵役を経た若い兵士のなかから、イスラエルの占領政策を批判する声が生まれているのである。

 イスラエルでは、男性は18歳から36カ月、女性は既婚者を除き18歳から21カ月の兵役義務があり、義務兵役を終えると男性は予備役に編入され一定期間予備役勤務の義務を負う。なおユダヤ教徒、イスラム教ドルーズ派教徒は義務兵役で、キリスト教徒、イスラム教徒は志願者のみである。

 兵役を経た兵士たちが、自分たちの経験した「任務」の実態を告発する。占領政策における一つ一つの事実、実態をまずすべてのイスラエル国民が知ることが大切だと訴えかける。

 メンバーの一人・ドタンという青年が語ったことは興味深い。兵役の後、同じ部隊にいた兵士の7割が、南米や南アフリカに旅行に出かけているという。兵士になる前は、「世界で最も道徳的な軍隊」であると教えられるが、実際占領地で若い兵士の行うことは、占領地パレスチナ人への抑圧行為であり、銃でもって有無を言わせぬ力を行使することである。18歳のイスラエル兵が自分の両親や祖父母の年代のパレスチナ人に有無を言わせず指示し、命令する。一つ一つ行為をこなしていくうちに、行為に慣れ当たり前になり、それまでの自分とその考えが大きく変わっていく。自分では何も考えないで機械のように任務を果たすことに集中する。軍隊に行く前にはイスラエル軍は最も人権を尊重する軍隊と教えられるが、パレスチナ人はユダヤ人の子供を殺すテロリストとその仲間であり、パレスチナ人の人権なぞどこかへ飛んでいってしまう。

 「イスラエル人のセキュリティ」のためには、なんでも許される。「セキュリティ」が拡大解釈、拡大適用され、占領政策が肯定され、パレスチナ人の生活、人権、命は粗末に扱うのが当然だとする「感覚」、日常がイスラエル社会に広がっていく。

 占領地で暴力的にふるまった後、週末は休暇のため家族のもとに帰り、私服を着てカフェで何事もなかったように家族や友人と穏やかに話す。兵士たちは占領地から、暴力と憎悪、恐怖心や被害妄想をすべて抱えたままイスラエル社会に戻り、表面上は平和と平穏を愛する市民として振る舞う。このギャップが、澱のように心のなかに溜まっていってしまうという。

 兵役の後旅に出るのは、占領地で行った行為に対して、兵士一人一人の内部で葛藤が生まれ、イスラエルを出て、兵士としての行為を忘れ逃れるためであると、ドトンは言う。とにかく占領地とイスラエルから逃れたいと欲する。しかし、旅に出てもやはりそれは一つの逃避であって、完全に忘れ逃れることはできない。

 そんな兵士には、「心理療法」が必要なことは明らかな状態なのだけれども、しかし、いくら「心理療法」を処しても解決するわけではない。治療が必要なのは兵士ではなく、パレスチナ占領を必要とし前提として成立している現代イスラエル社会である。イスラエル社会こそ病んでおり、内部から死滅しつつある、と告発する。

 「沈黙を破る」グループによる告発の様子も描き出している。
 占領地で経験したことを2004年テルアビブでの写真展で紹介した。写真展会場で参加者が座って話し合う。「兵役拒否すべきだ」と主張する婦人に対して、「結論を急がないで占領地の実態を知ろう」などという議論がおもしろい。
 また、国会の小委員会でグループメンバーが占領地での実態を「証言」する。証言中に「テロリストを支援するのか、ユダヤ人の子供を殺している」と発言を遮る議員(?)らしき人の声があり、それに対し「政治的発言は避けて事実を聞こう」という声も上がり、紛糾する。この様子は「現代イスラエル社会の悩み」をそのまま映し出している。

 映画が「沈黙を破る」メンバーと並行して描き出すのは、パレスチナ人たちの姿である。
 2002年のヘブロンの難民キャンプで爆撃により家を破壊されたペンキ屋の家族を追う。破壊された家掘り起こし残された貯金を探す男の姿を映し出す。埃まみれになって掘り返すが、手作業なので掘り起こしたそばから崩れる、大きなコンクリートの塊もある。「絶望」とはこういう姿なのだろうか。財産を失った男はあきらめきれなくて掘り返す。

 2007年に監督は再び、この家族を訪ねる。湾岸諸国からの援助によってヘブロンは復興していた。ペンキ屋は車の塗装をして暮らしていた。成長した子供たちに囲まれて「いつまでも過去を引きずっているわけにはいかない、忘れられないが忘れなければ生きていけない」などと語り、いまを精一杯生きている姿を見せる。それが実にいい。
 2002年の爆撃で右手を失った若者は家族を失い嘆き悲しんでいた。2007年再訪した時には法律家として働いていた。右手を失った後イスラエルから爆弾を投げた「テロリスト」の証拠であるとして逮捕され、3年間投獄され服役したという。踏んだり蹴ったりの扱いだが、にもかかわらず実に「穏やか」に話す姿が印象的だ。

 こういう人たちのあいだにこそ、本当のヒューマニティが生まれ育つのであり、したがって未来への希望が生まれるのであろうと思う。

 映画はドキュメンタリーであり、いろんなことを描き出している。見逃したこともたくさんあると思う。
 ただ、映画がはっきりと描き出しているのは、占領政策を取り続ける現代イスラエル社会が確かに病んでおり、もはや未来は描けないということではないだろうか。(文責:児玉 繁信)
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若松孝二 監督 映画『キャタピラー』を観る [映画・演劇の感想]

若松孝二 監督 映画『キャタピラー』を観る

1)この映画のよさ 
 
 この映画のよさは発想が「奇抜」であって、その効果が映画全体をリードしているところにある。
 
 若松監督の描き出すショッキングな映像、ショッキングな設定、外観に鼻面を引きずり回され、圧倒されて感心してしまう人も多いのかも知れない。明らかに若松はそれを狙っている、というところもある。

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 手も足ももがれ、耳も声も失った日本軍兵士、確かに戦争で実際に、ありうるだろうし、存在したであろう。その兵士が「食欲と性欲の塊」となった姿は、観客にとっていかにも強烈だ。しかも戦時の日本では「軍神」と称えられる。「軍神」と称えるのは、戦前の日本の社会関係であり、したがって、「奇妙」、「奇天烈」なのは、かつて戦中戦前に存在した日本の社会関係そのもののに他ならない。
 この奇天烈さ、気味の悪さを、そのまま取り上げた若松監督の発想が実におもしろいし、映画にインパクトを与えている。
 (もちろん、手足をもがれ耳も声も失っても、必ずしも性欲と食欲の塊になるとは限らない。悲惨な姿、グロテスクな被害の姿に、あえて加えて性欲と食欲の塊に設定し、奇天烈さを強調しているようにも思えるところに若干の不自然さはある。)

 兵士は手足を失っても生きなければならないのであり、それは決してきれい事ではない。生きておれば当然食欲もあろう、性欲もあろう。映画は、悲惨な戦争のもたらす現実の一面を、隠したり無視したり美化することなく、鮮やかに観客の目の前に突き出して見せたのである。それに加えて手足を失った夫・久蔵に軍服を着せ、勲章をつけ、リヤカーに乗せて、国防婦人会の割烹着を着た妻が引いて歩かせて見せたのである。
 ほんとうに「強烈」な光景ではないか。戦争被害の悲惨さばかりではなく、手足をもがれ耳も声も失った者を表面上「軍神」に祭り上げてしまうことに誰もが従ってしまう姿。このようなことがまかり通る「現実」が戦争中、確かに存在した。

 戦争のもたらした悲惨な現実を糊塗し目をそらし、特攻隊員をことさら賛美する現代日本に存在する風潮、「美しい日本」と描き出す風潮に対し、そうではない戦争の姿をえぐり出して見せたところは、この映画の優れたところだ。現代日本の風潮に対する若松監督の生きた批判でもあるだろう。この映画の輝いているところだ

 いまひとつ感心したのは、軍神の妻・シゲ子の描写である。この時代の日本の女の姿が描かれている。
 この妻は、以前の夫をとりたてては愛してはいなかった。家に嫁入りし、夫の従属物として扱われてきた。回想シーンで夫・久蔵がシゲ子を殴りながら、「うまずめ」と罵倒するシーンがある。妻は夫のある種の財産として奴隷的に扱われていたということであり、妻の側も、戦前の日本の農村ではそれ以外に生きる道がなく、従うしかなかったのは、映画が描写するとおりであろう。
 この時代の日本の女の地位、扱われ方に対する批判が、描写から立ち上がってくる。これもこの映画の主張であろう。

 夫・久蔵が手足をもがれ帰ってきた時に、まず妻・シゲ子はその姿に驚いて逃げ出した。しかし逃げるところはなかった。夫の面倒を見ながら生きる以外に道はない。
 他方、周りは夫を軍神と誉めそやす。夫が手足を失った、こんな風になってしまった、とシゲ子は当初はとまどい泣く、夫の身を憐れんでいる。しかし決して心が通い合っているわけではない。ということは、五体満足の男ではない、自分をこの先も養ってくれる夫ではない、ことを泣くのである。他に生きる道があったなら、逃げ出したであろう。
 そのうち手足を失った姿にもすぐ慣れてしまう。周りが夫を軍神と建前上誉めそやすのなら、それを利用して生きてやれ! とさえ思うのである。
 
 戦前の日本で、夫に縛られ、家に縛られ、軍国主義と戦争遂行に唯々諾々と従ってきた多くの日本の女の姿を、寺島しのぶはよく演じている。従順でありながら、ある意味ではずうずうしく骨太で逞しい姿をよく表現している。

2)破綻の原因

 この映画の奇天烈な思いつきは、こういう戦争の描き方もあるとあらためて思い至らせてくれるのだけれど、映画全体がその場での「思いつき」に引っ張られて、全体を物語として展開することができていない、まだまだ未完成の印象をぬぐいきれない。
 一言で言えば、脚本は完成していない。未完成のまま撮影に入りその場の思いつきで、若松監督がコロコロ変えてしまったことが手に取るようにわかる。

 奇をてらい人の目を引きつけることに若松監督の関心が集中していて、その場の思いつきに支配されている、そのためトータルとして人間を描くことができていない。若松監督は、ショッキングな場面や設定で観客の目を驚かせる誘惑にとりつかれており、それが映画だと思い込んでいる。根本のところで勘違いをしている。
 これが映画を破綻させている第一の原因であろう。

 「思いつき」のおもしろさと、「思いつき」によって破壊された無残な姿が併存している。

3)未完成の脚本

 脚本が未完成であることは、監督が、人間を理解していない、外面的にしか見ていないところに起因している。

 手足を失い食欲と性欲の塊となった夫・久蔵は、軍神と称えられた新聞と勲章を眺め、満足げな表情をうかべる。この時の久蔵には、人間性は存在しない。

 ところがこの久蔵が、中途から中国戦線で犯したであろう中国娘に対する強姦と殺戮の記憶にさいなまれるようになる。どうも、シゲ子に殴られてからだったと思う。
 しかし、この変化はいかにもおかしい。軍神は、中国娘の強姦と殺戮の記憶を怖れるのだが、そのことは殺戮と強姦を非人間的な行為と認識して、恐れているわけではない。すなわち何かしら人間的なものを自分のうちにとりもどして恐れているのではない。ただシゲ子にひっぱたかれることから動物的恐怖から恐れているにすぎない。あるいは、「バチがあたるのでは」と恐れているにすぎない。

 これは批判でもなければ反省でもない。そこには「人間的なもの」は存在しない。
 したがって、映画は、「中国娘に対する強姦と殺戮」に対して、「罰が当たる」と脅してはいるものの、正面から批判をしているわけではない。「久蔵に人間性は存在しない」と同様に、このような映画の「描き方」にも、やはり本当の人間性は存在しない。

 それから、シゲ子なる人物もよく描かれているのだけれど、理解不能なところがある。
 シゲ子は手足を失った軍神をかいがいしく世話する貞節な妻としてしか生きることができない。外面的にはそのように振舞う。しかし、軍神たる夫はその実、性欲と食欲の塊であった。
 そのうちシゲ子は、世間が称える軍神の「価値」を利用し生きることも覚える。村の行事や出征の場に、軍服を着せ勲章をつけさせた軍神をリヤカーに乗せ引いて歩く。それは村のなかで自分の存在意義、位置を、誇示し確認することであった。しかし、世間が称える建前としての軍神は、実のところ働けないから世話をし養わなければならない。外面と内面が極度に乖離した生活がつづく。このような描写はなかなかいい。

 しかし理解不能なのは、一貫して不思議なのは、夫と妻が決して心を通わせることが最初から最後までないことだ。シゲ子が自分の食事まで与えてまで世話しても、手足をもがれた夫をシゲ子が憐れみの感情で眺めても、夫はシゲ子と心を通わせるには至らなかった。

 そのため、「食って寝て食って寝ての夫でいい」、その関係のなかで生きて行こうとシゲ子が考え、夫を抱きしめるときも、シゲ子の側からの一方的な憐れみであって、心は通わない。夫の心は開かないし、そもそも監督は夫の内面を描こうとしない。これも実際におかしなところだ。

 「軍神と称えられた新聞と勲章を眺め、満足げな表情をうかべる」判断力のある久蔵が、なぜシゲ子に対してはその判断力が働かないのか、心を開かないのか、その内面はどのようなのか、監督は描かない。
 まるでそんなことには興味がないかのようでさえある。おかしなことだ。

 だから シゲ子にとって、夫・久蔵は心を通わせる相手として存在しておらず、義務として養わなければならない対象として、最初から最後までせいぜい憐れみの対象として存在するだけである。
 そうであるとすると、夫に対して見せるシゲ子の態度、もらった卵を軍神の口に押しつける場面なども、尽くしても理解されない、人としてのつながりがちっとも実現されない妻の「悲しみ」は表現されているものの、重みが小さいのだ。

 こういうところは脚本の欠点であろうか。この監督は、人間の内面的な感情の移り変わりやつながりを描きだしていない。生きた姿で描き出すことができない。外面的な奇異な設定にとらわれて、というより外面的な表現にこそ興味が向いていて、その設定のなかで生きていく人間の姿を描き出すことが、決定的に苦手なのだ。これが映画の欠点、欠陥であろうし、監督自身の欠点だろう。

 敗戦を聞いて、夫が自殺するのもおかしい。軍神として生きてきたなら、そんな人間なら、敗戦を聞いて自殺などしない。自殺するには、それなりの「判断力」が必要だ。しかし、ここまで判断力なしの人間と設定してきたではないか。矛盾している、破綻しているではないか。
 軍神として生きるにはこの先不安になるだろうが、自殺してしまう理由にはならない。ましてや性欲と食欲の塊であれば自殺する理由がない。軍神として振舞ってきたことを誤りだと反省したわけではなかろう、ましてや強姦と殺戮を反省したわけでもあるまい。(もっとも、強姦と殺戮を反省したのなら、もっと人間的表情をシゲ子に対して見せたろう。夫は何も見せなかった。)

 どう考えても、自殺はありえない、分裂した不可解な行動である。夫・軍神の心のうち、その変化は、まったく描写されていない。というより描き出せないというのが、より適切だろう。ここでも脚本は破綻している。せっかく久蔵役の俳優が這いずり回って「熱演」しているのだが、熱演の意味がない。

 そんなところは他にもある。
 敗戦を聞いてシゲ子は、うれしそうな表情を見せバンザーイを叫ぶ。戦争遂行によって何かしら抑えつけられていた状態から解放されるようなのだが、これがまたありえない。シゲ子には手足を失った夫の世話をすることでしか生きる道がない。愛情はないけれど、懸命に戦中を生活してきたのだし、夫の姿にもその世話にも慣れてしまった。そのことにシゲ子自身もたぶん驚いたであろうが。しかし、家と軍神を守っていく以外に生きていく道はないであろう農村の女は、敗戦になったからといって、この先の生活の手立てを獲得していないのだから、不安にこそなりはしても、直ちに解放感を得るなどありえない。したがってこのような設定はあり得ないのである。シゲ子の内面的な心情とその変化の描写が欠落している、というより破綻しているから、このようなありえない設定が突然出てくる。

 このような場面をわざわざ追加しなくとも、観客は戦争の悲惨な現実とそれに対する批判を認識するであろうし、苦難に耐えて生き抜いてきた農村の女の姿、その時代の日本人の姿を認識するだろう。従順でありながら、ある意味ではずうずうしく骨太で逞しいシゲ子の姿のなかに、民衆的要素が生き残っており、この先どのように目覚め、力を得るか、と想像するのではなかろうか。
 したがって、「敗戦バンザーイ」は余計な描写というべきであろう。

 あるいは、篠原クマさん演じる男なども、余計だと思う。むしろ登場させるのなら、「非国民、無駄飯食い、役立たず」と国家から、さらにはむしろ周りの民衆から、非難され、いじめられ排除された姿を映し出すべきだろう。監督は、この男を決して戦争に荷担しなかった「象徴」として登場させているようであるが、現実をしらない観念的な描写であって、決して批判になっていない。戦後、全共闘世代の一部が考えついた浅薄な考えであろう。

 こんなところも、脚本のおかしなところである。出てくる人間が、生きていないのである。「思いつき」で、その時々勝手に人物の性格を変更している。人間は何の根拠もなく行動したり、変わるものではない。人間そのものをよく知っていないことが露呈している。

 その他に映画の問題点のうち細かいところを指摘すればいくらでもある。

4) 魅力的な駄作

 勤労奉仕に来ている早稲田大学学生の若々しい肉体をみてシゲ子が欲情し、その夜夫にまたがる場面なども、シゲ子の内面のあるリアルな描写へと進もうとしている場面ではあるのかと思った。しかし、それだけであって、その先が続かなかった。ショッキングな場面で観客を驚かせたら、若松監督の目的は達したので、そのあとの展開はないのだ。

 生きておれば、性欲もあろう。ことさら隠したり、道徳を盾に「建前」で描くべきではない。逆に言うと、若松監督自身が「古いモラル」に囚われているから、それをセンセーショナルに、あるいは「週刊紙的に」描き出しておしまいにするのである。こんなふうに処理してしまうところは本当につまらない。

 食糧をそっと置いていてくれる義弟とシゲ子との関係が、心の通じ会わない夫との関係に対比して描かれるのかと思いきや、この場面も物語は展開しなかった。

 こんなところなどは魅力的な場面であって、もっと展開できるだろうに、と思われる。こういう描写こそ重要なのであると思うのだが、残念ながら若松監督には、描く意思はない、したがって描く力がない。戦中を生きた日本人たち、人々のあいだでの気持ちのつながり、関係がほとんど描かれないというのが、この映画の特徴となってしまってる。残念なところだ。

 結論的に言うと、発想・設定は面白いが、生きた人間が描かれていない。
 よくいえば、脚本はまだまだ未完成である、したがっていくらでもよくなる、悪く言えば、破綻している。脚本を直せば、見事な映画になる。

 監督の意図に親しみをこめて言うならば、当作品は魅力的な駄作である。(文責:児玉 繁信)

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映画『パリ20区、僕たちのクラス』を観る [映画・演劇の感想]

映画『パリ20区、僕たちのクラス』を観る

 よい映画だと友人から勧められて、観た。第一印象は、「よい」映画、というのとは違っていた。
 何というのだろう、パリに暮らす下層住民の生活の一片が切り取られている。ここに出てくるのはいまを生きている普通の人たち。現代の一部を鏡に映して見せてくれた、ということ。

映画「パリ20区、僕たちのクラス」001 サイズ小.jpg
<映画のチラシ>


1)教師たちも普通の人間だということ
 まず、注目したのは教師たち。
 教師がまったく普通のオッサンやオバサンであること、自分をコントロールできずに、時には怒り叫んでしまうこともある。本人らがどのように思っているかは別として、教師たちが特別な人間ではなく、ごく普通の人たちであるということ。感情的になることもあるし、怒って声を荒げることもある。教師たちが珈琲代が高くなって困ると話す、職員室にコーヒーメーカーを設置することを職員会議で議論する彼らの日常の様子などをみて、つい苦笑してしまう。われわれと同じではないか。

 教育は、普通の人が生活を抱えながら子供たちを社会的に教え育てる行為であるという、建前でない当たり前の現実を目の前に提示されて、そうだろうなあと妙に納得する。その現実をあらためて前提として認識するところから出発しなければならないと思う。
 逆に言うと、教師が「聖職」などではないとあらためて認識させてくれる。聖職論は国家から教師が統率管理されるための理窟であろう。また、当の教師のなかには、そのような幻想を持つものがいるかもしれないけれど、実際は違うということ。

 さて、話がそれてしまった、もとに戻ろう。
 この学校は移民が多いパリ20区にあり、当然暮らすには移民の子弟が通うようだ。フランスの旧植民地、アフリカのマリ、モロッコ、アルジェリア、マルチニーク諸島などと出身や人種がきわめてさまざまだ。中国人子弟もいる、実際憶えきれないほどの国々の子弟がいる。両親が不法滞在者である例も多い。
 全体的に学力が低いとされている。理由は、移民家庭の貧困に由来する。家族や両親はまともな職にありつけない。フランス語のできない両親も多い。生徒たちのなかにも苦手なものもいる。
 フランス社会のなかで移民家族の置かれている位置を、生徒たちも認識しているのであろう。
 不安な未来、大人への怒り、フランス社会への怒りがある。暮らしを脅かす入国管理局役人や警官への恐怖と嫌悪・反発をすでに持っている。粗末な扱われ方に対する誰に向けていいのかわからない、どのように解決していいのかわからない、不満と怒りがある。感情の起伏が激しいのは、この世代の一つの特徴ではあるものの、さらに加えて置かれている現状が彼らをいっそういらいらさせる。粗末な扱いを受けたら、感情を制御できなくなる生徒もいる。

 映画に登場する国語教師・フランソワは、生徒に対して比較的がまん強く接している。思いやりもあり、粘り強い性格で、生徒の非難や文句にも丁寧に答える。ゲイではないかと生徒からからかわれても、ゲイへの偏見を解きほぐすように話す、女の子の胸のふくらみが気になるという作文に接しても、興奮気味の生徒たちに対して、当り前のことと落ち着いて対応する。こんなところはりっぱだ。

 14歳15歳の生徒たちは、集中力がなく、騒ぎ立てる。感情の起伏も激しい。その激しさは、それぞれの生徒の置かれた関係にも拠っている。フランソワと生徒との緊迫したやり取りがおもしろい。なぜ緊迫しているか、観客にも徐々にそれがわかってくる。

 比較的民主的な教師・フランソワといえども、やはりそこは教師であって、「おやっ!」と思うところもある。生徒に対して、年上の者に対する礼儀とか、教師への尊敬を説く。フランソワは当り前のように言うから、「おお、そうか」、それが現代フランス社会の「常識」の一部なのか、と観客は認識する。
 フランソワが、なるべく生徒の成長に力を貸してやりたいと思っているのは事実なのだが、その「思いやり」にもはっきりと「限界」があって、限界を超えた反抗や礼儀の欠如は、懲罰と退学に放り込むのはいたしかたないと当然のように考えているし、そのようにふるまう。ここに確かに溝がある。教師と移民の生徒間の溝であるとともに、フランス社会の溝である。

 この現実は、生徒側からすれば、教師への不信として立ち上がる。あるいは、フランス国籍を持った人たち、白人への不信として立ち上がる。教師側からすると、「思いやり」をどうして理解してくれないか、といういらつきとなる。

 実際に教師に逆らえば、懲罰と退学が待っているから、教師への礼儀や尊敬は、生徒の自主的なものではなくて、強制力が伴っているものであろう。それゆえ「内容」が消失する。逆の面からいうと、たとえ善意であっても教師の意図を超えて、移民の子弟にフランス社会の秩序を叩き込み、従順な労働力に育て上げている側面が確かに存在する。

 教師が、自分から教師の権威や年上の者に対する礼儀を、生徒にたいして主張するが、意外に強く主張する。教師を侮辱した場合には、懲罰。最高の懲罰は「退学」。退学させることは、学校側、教師側にとってすれば、従順でない生徒の排除であり、教育の放棄なのだが、排除と放棄の先の救いきれない現実が厳然として存在する。教師個人はその現実を当たり前のごとく受け入れている。
 
 こうなってしまうと、生徒をまもるよりも学校や教育の秩序を守ることに重点が移る。曰く、秩序を守らなければ、教育の秩序が乱れ、他の生徒への教育が保障されない。校長や教師たちはこのことを当然のごとく確信しているようでもある。教師と学校の権威を保つために必要だという教師には共通の常識が存在しているように観察される。

 要するに、一方的に、教師が正しいというわけではない。また逆に、一方的に生徒が正しいわけでもない。私はそう受け取った。映画のよさがあるとすれば、このことを描き出しているところにある。

2)スレイマンの退学
 スレイマンの退学がいかにも簡単に決定されることに、少し驚いた。スレイマンは、クラスメートを傷つけてから退学になったわけではない。ケガをしたのは事故である。であれば、教師に対して侮辱的な言葉を吐き礼儀に反する態度をとったこと、これが退学処分の理由である。
 確かに、教師フランソワは、熱心に教育している。スレイマンのことを考え自立的に勉学できるようになるよう願っているが、いまだそこまでの学力は身につけていないと評価する。フランソワの評価会議での発言を、参加していた生徒代表がスレイマンの学力は低く見込みがないかのごとく伝えてしまった。スレイマンは教師から信頼されていないと受け取り感情を爆発させてしまう。フランソワはそんな密告のような告げ口をするのは娼婦だ、生徒代表にこれまた不当な非難を浴びせてしまう。不当な言葉だと指摘されても、フランソワはむきになってしまい、撤回することができない。その結果、クラスじゅうが興奮状態になりが、スレイマンがクラスを飛び出す。飛び出す時、かばんの金具でクラスメートの一人を傷つけた。

 スレイマンが懲罰会議にかけられたと知ったクラスメートたちは、一致してスレイマンを擁護する。というよりは、退学という処分・排除の持つ不当さ、退学のもたらす残酷な結末を知っているからであるかのようである。退学は、このクラスの生徒であれば誰の身の上にも起こりうる現実であると知っている。マルチニーク島出身の生徒が退学措置に抗議しフランソワに食ってかかる。彼はよそ退学になりここへ転校してきた。同様にクラスメートたちは、退学させ追放する教師と学校当局に対し、本能的と呼んでいいほど一致して非難する態度をとる。クラスメートたちは、退学の理由への反論を述べるわけではない。ただ、本能的に退学を止めようとする。映画のこういう描写にはやはり驚いてしまう。よく現実生活を描写している。

 移民の子弟、不法滞在者の子弟、パリ20区にはそんな生徒たちが多い。人生は不公平だということをこの生徒たちはすでによく知っている。
 不安な未来、大人への怒り、周囲への怒りがある。移民の子弟に対するフランス社会の粗末な扱われ方に対する、誰に向けていいのかわからない、どのように解決していいのかわからない、不満と怒りがある。

 学校も教師も常に正しいわけではない。生徒が正しいわけではない。教師は自覚してはいないと思うが、学校や教師が、フランス社会の秩序を教え、従順な労働力を育てる役割を果たしている。こういう現実を、観客に暴いて見せている、そうしてみて自分で考えろと、たぶん監督は主張したいのであろう。

3)フランスの学校制度
 補足。
 フランスの学校制度なのだろう、われわれからすれば、驚くようなところもある。
 生徒の成績評価の会議に、生徒代表が2名参加し、教師たちの論議を聞いている。それから、校長、教師代表2名、保護者代表2名で構成される懲罰会議というものがあって、ここで問題児と保護者が呼ばれ、意見を述べた後、退学などの処分が決定される。どちらも「直接的民主主義の制度」が機能していることを教えてくれている。
 実際には、懲罰会議にあげられたら、前例などからして、すでにほぼ処分は決まってしまっているようで、形骸化してはいるようだが、このような制度が運用されていることに驚く。フランス直接民主主義の伝統なのだろうか?残り滓なのだろうか?どちらでもあるとは思うが、ある新鮮な驚きを感じる。

 決して完全ではない、いろんな欠点も持つ普通の人たちが、自分たちで議論して自分たちの解決を探るというパリ20区の生徒と教師の生活、民主主義制度の原像のような姿を、あらためて認識した気持ちになった。(文責:児玉繁信)
(神田神保町岩波ホール、6月12日から8月6日までロードショー) 

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ヴェルコール 『海の沈黙』を観る [映画・演劇の感想]

ヴェルコール 『海の沈黙』を観る
神田岩波ホール、2010年3月10日


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1)フランス国民に、レジスタンス精神を注ぎ込んだ
 小説『海の沈黙』は、1941年10月に書かれている。ナチス・ドイツによる占領がはじまったばかりの時期。当時フランスは、ドイツの電撃戦(1940年5月10日~6月25日まで)によって一方的な敗北をこうむり、フランス政府は降伏し、ドイツによる占領がはじまった。茫然自失の状況に追い込まれていた多くのフランス人は、どのように占領下を生きるのか、どのような抵抗が可能なのか、手探りの不安な状態に置かれたであろう。

 そんな時に、この小説は現れた。作者がだれかもわからない。フランス人であることに間違いはない。
 注目されたのは、占領下にもかかわらず不服従の態度を貫き、占領者であるドイツ軍人に対峙しているその姿である。当時のフランス人の多くは、主人公「私」と姪の確固たる不服従の態度に、自信を取り戻し、「そうだ、このようであらねばならぬ」と思いを重ねたのであろう。

 『海の沈黙・星への歩み』(岩波文庫)の解説で加藤周一が書いている。この作品の「特徴は、…直接に体験的であることと、体験が単に個人的なものではなく、国民的なものであるということだ。」

 まったくその通りだ。「私」のとった態度に、フランス国民が一つになって共感を重ねた。わずか一ヶ月半の戦闘での降伏、敗戦・占領という事態に、われを見失い自信を打ち砕かれ、どのように対処していいか混乱していたフランス人全体に、すなわちフランス国民に、小説は「レジスタンス」の精神を注ぎ込んだ。これが小説の果たした実際的「効用」である。たぶん、体験した人にしかなかなかわからないのかもしれない。

 小説が描き出しているのは、反戦ではない、レジスタンスである。レジスタンス精神は、占領・支配への憤激、反抗である。何よりも自分たちの日常生活を破壊されたことへの怒りである。ただし、レジスタンスを組織的に実行するには、強い精神と組織が必要になることをも暗示する。小説の描かれた段階1941年10月段階では、まだ行く末はみえていない。

2)小説の描写

 小説の特徴的な点は、断片的な描写を重ね、その断片を通じ不服従の心理描写を重ねていくスタイルをとっていること。作者ヴェルコールが書いた初めての小説だそうで、確かに描写や展開にぎこちないと感じるところもあるものの、「私」と姪の精神の闘いが鮮やかに表現されている。作者は「体験」を、断片的固定的な描写を重ねて表現しており、構成はきわめて単純だ。

 画家であった作者は、この小説を書かずにはおれなかった。彼の占領下での生活とそこでとった態度を描いたが、彼の体験はフランス人全体に共通しており、不服従の心理描写は、フランス人にレジスタンス精神を叩き込んだ。ドイツ軍に対するレジスタンスの精神をうちたて、占領下の生活を立て直し、それぞれができること実行しなければならないと、文字通り「無言」で訴えていた。静かで熱いその心情は、誰にも共通した「国民的なもの」であった。そして彼のレジスタンス精神はフランス国民に確実に伝わった。

 主人公「私」も姪も、不服従の態度で接する。ドイツ人将校ヴェルナーの会話にも応じない。頑固なまでの不服従、これこそ小説が広く支持された第一の理由である。

 それから、善意の持ち主・音楽家でフランス文化に尊敬の念をもつドイツ人将校ヴェルナーは、不服従の態度をもって臨む「私」と姪に親しげに話しかけ、ドイツとフランスの「結婚」を語る。しかし彼の「理屈」は、善意といえども「占領者の理想」にほかならず、同意は屈服を意味する。
 沈黙の抵抗によって作者は、占領下においても被占領者フランス国民が、精神的に優位に立ちうることを示そうとした。この点に広く支持された第二の理由がある。

 みずからの尊厳をどこにどのように取り戻すべきか、迷っていた当時のフランス国民に、その姿を指し示した。小説の持つ何の装飾もしていないこの「むきだしの真実」が、当時のフランス人をひきつけたし、そして現代のわれわれをもひきつける。

 小説は、ドイツ人将校ヴェルナーと彼の描く「理想」が方便であって破綻してしまうことを描く。ただ、ヴェルナーの自己破綻として設定されている。
 彼の語る理想は、「ドイツによるフランス占領は、ドイツ人とフランス人が仲良くなるチャンス」というもの。幻想に囚われているのは、この小説の場合ドイツ人将校なのではあるが、実際にはフランス人の間にもひろがっていただろう。「利益」は人を誘導したことだろう。ドイツ人とうまくやっていくことで自身の利益を求める者は存在しただろう。ヴィシー政府であり、一部のフランス人である。多くのフランス国民にとっては、傀儡ヴィシー政府からもこの幻想をふりまかれたのであり、まずは対決しなければならなかった「論理」であったろう。

 ところが、この論理は小説のなかでは自己破綻してしまうと設定されている。細かいことを言えば、自己破綻は何によってもたらされたのか?ということ。崩壊させたのは、ドイツ軍による占領の現実であり、それを肯定する同僚ドイツ人将校によって、である。必ずしも不服従を貫くフランス人によってではない。
 最後に、「私」も姪も、破滅したドイツ人将校に少し同情していることだ。この道理はわからないわけではない。
 これらの点は、少し気にかかる。
 
 やはり、これらのことは小説の書かれた1941年10月という時期に関係しているのであろう、歴史的に評価しなければならないということだろう、と思う。そのようにみなければならないのだろうと思う。

3)映画の描写
 映画の良さは、小説のよさに多く依存している。登場するのは主に3名、その会話の場面が映画の大半を占める。その断片的描写だけでもって、レジスタンス精神を描き出している。

 映画と小説の違いは、映画がつくられたのが1947年であって、戦後であるということだ。わずか8年後だけれど、様変わりした状況下である。フランス国民はドイツ・ファシズムの敗北を目の前で見た。連合軍の勝利でもあったが、フランス国民は反ナチスのレジスタンスは、あるいはドゴールの自由フランスは、解放の闘いの一翼を担った。フランス人は、ふたたび自信と誇りをとりもどした。不安から解き放たれた、そんな「位置」から映画はつくられている。小説の持つ不安、緊張感とは少し異なるように感じるところ、何かしらの「違和感」のようなものもあるような気がした。占領下フランス人の囚われた不安と緊張感が少ししかとらえていないように見えるのは、気のせいだろうか。しかし、本当のところよくわからない。

 また、映画は小説を尊重している。映画の構成と描写は小説に忠実に従っている。小説の描写を映像でなぞっている。脚本は小説そのままにつくられていると言っていいほどだ。問題は、小説を忠実になぞることにあるのではなく、小説の神髄、すなわち当時の困惑するフランス人にレジスタンス精神を注入した意義をよくとらえ表現しているか、であろうと思う。この点にも若干の疑問はある。

 というような小さな疑問はあったとしても、当時のフランス人をとらえた不服従、レジスタンス精神の姿を鮮明に描き出しているところに映画のよさはある。
 「私」も姪も、ただ黙っているだけ。沈黙が不服従をそのまま表現している。ドイツ人将校ヴェルナーが話しかけると、編み物の手を早める姪の心の揺れも、不服従の心の生きた動きをそのまま表現している。
 小説も映画も直接描いていないが、不服従の背後にはレジスタンス精神とレジスタンス運動が広がっていることを暗示している。
 特に映画がよく表現しているのは、「私」の視線、眼の光である。ヴェルナーの話しかける言葉に反論しない。しかし彼の眼は、同意していないことを明確に表現している。それだけではない、人間としての尊厳をも表現している。

 沈黙を貫く「私」の視線、眼の光は確かに見たことがある。イスラエル軍に対峙する占領下のパレスチナ人の眼の光りだ、米軍支配下で暮らすイラク人やアフガニスタン人、沈黙しているが、決して服従していない人のそれと同じだ、というようなことも考える。

追記 2010年8月26日

 忘れないうちに、気になった点を書きのこしておきたい。
 小説と映画には「違い」がいくつかあった。そのうち、下記に気になった二つのシーンを記しておく。
 一回観たばかりなので、二つ以外他にも「違い」はいくつかあるだろう。
 もちろん、映画はかならず原作通りでなければならないと主張しているわけではない。

 一つは、映画では、ドイツ人将校ヴェルナーは、占領者たる自身の論理が破綻していく根拠の一つとして、強制収容所におけるユダヤ人虐殺を語っていた。
 しかし、これは歴史的事実に反する。1941年の時点では、「強制収容所におけるユダヤ人虐殺」はドイツ人将校といえども知ることはできなかった。広く知られるのは戦後である。このような安易なところが、映画の緊張感を減じている。

 いま一つは、最後のシーン、ドイツ人将校ヴェルナーが去る時、主人公はヴェルナーに視線を注ぎ続ける。原作では、いつの間にかヴェルナーは去っていなくなったとあった。これは監督の「工夫」なのだろうが、成功しているのかどうか、判断しかねる。(文責:児玉 繁信)
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マイケル・ムーア監督『キャピタリズム』を観る [映画・演劇の感想]

マイケル・ムーア監督『キャピタリズム』
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 <マイケル・ムーア監督、映画のパンフレットから>

1)家を失った人々の立場から描くムーア
 見終わって感心した、あるいは一種の驚きであった。ムーアはきわめて知性的であるし、冷静だ。2008―2009年の経済危機をひきおこしたアメリカ社会、キャピタリズムに対するムーアの深い見識がうかがえるとともに、的確な批判が提示されている。
 ムーアとその作品を、何かしら人を驚かせて、あるいはインタビューやパフォーマンスの映画作家などと紹介する者があるが、そのような特徴づけは間違っているし、ムーアの多くを見逃すことになる。
 感心したいまひとつは、平易で落ち着いた描写であったことだ。これでもかこれでもかと衝撃的な映像を重ねに重ね、観る者に考えさせる余裕さえ与えないのではないかと予想したが、そうではなかった。『キャピタリズム』は落ち着いて冷静に、しかも2008年から09年にかけてアメリカで起きた経済危機をきわめて正確に描き出していた。
 彼の的確な描出は何によってもたらされているか?
 ムーアが、サブプライムローンで破産した人々、家を失い追い出される人々の悲劇、理不尽な事態に同情と怒り、批判を重ね、その視点から危機全体を認識しようとしていることからきている。悲劇をもたらした原因を、ムーアは『キャピタリズム』そのもののであると明確に指摘している。

2)困難なテーマに挑むムーア
 この映画の扱っているテーマは、じつに大きいし、描き出すのは容易ではない。正確な現状認識とその上に立った批判を持ち合わせていなければならない。決して一つの事件や一つの問題を映し出し、批判してみせるというわけにはいかない。経済危機、経済恐慌の「形象」、映像が目の前にそのまま存在するわけではない。そもそも危機とは何か、何が原因で生れるか、何をもたらすか、いくつもの経済事象はどのようにつながっているか、一定の認識がなければならない。でなければ、対象の全体像をとらえることはできない。さらにそのうえで、批判の内容・方向を提示するのはさらに難しい。映画は、この難しいテーマに果敢に挑み、かつ現代世界の病巣を正確に抉り出している。つまらない「屁理屈」におちいることなく、問題の根幹へと迫っている。

3)ムーアは何をどのように描き出したか?
 2008年から2009年にかけてアメリカ社会で何が起きたのか、描き出される映像は、どれも衝撃的だ。
 ペンシルバニアの民間更生施設は判事に利益供与し、判事は些細な少年少女犯罪にも、片っぱしから有罪判決を下し、更生施設に送り込んでいた。民間更生施設は、可能な限り多くの少年少女を収容しようとし、かつ収容期間も勝手に引き延ばしていた。その目的は「更生」ではなく「ビジネス」なのだ。

 パイロットになるための大学や訓練校に費用がかかり、なった時点ですでに10万ドル(900万円)の借金を抱えているという事実、しかも年収が200万円。09年1月15日制御不能のUSエアウエイズ1549機をハドソン川に見事に不時着させ、155人の乗客の命を救ったサレンバーガー機長も登場し、航空機の安全対策を訴え、航空会社のもうけ主義を批判している。年収200万円のパイロットでは安全を確保できないと待遇改善を訴えていた。パイロットの多くが過重勤務・過重労働を強いられ、墜落事故も増えているという。
 本人も家族も知らないうちに保険がかけられ、従業員が死亡したら、会社側が利益を受け取る『くたばれ百姓保険』までまかり通っていること。人の命を儲けの対象にするひどい社会になってしまった。
 
 マイケル・ムーアの父親も画面に登場してくる。GMの従業員だった頃の仲間や家族の生活を懐かしむ。「33年間働いて、同僚が一番の思い出だ」。毎日午後2時半、工場から帰ってくる父親を家族で迎えたことをムーアが語る。この無数の「同僚や家族」に寄り添う立場から、ムーアの認識と批判は立ち上がっている。

 衝撃的なのは、サブプライムローンの焦げつきから、住みなれた家を追い立てられる人々のこと。追い立てにくる保安官も警察も金融資本の手先として心ならずも働いている。そんな仕事を拒否する保安官も現れてくる。
 不動産屋に引き渡す時に、すぐに売却できるように、追い立てられる家族が整理や清掃をする映像が衝撃的だ。住民の生活廃棄物に困った不動産屋は、追い立てられる家族に処理を1,000ドルで「依頼」する。追い出される住民にとっては、目先の1,000ドルが必要だから、自分たちの使ってきた家具や絨毯、衣類などを、庭先で泣きながら焼却する。何という光景か!

 問題は、一つ一つの衝撃的な事実、これらの「ひどいこと」がどうして、アメリカ社会のなかにはびこり、拡大して行ったかということである。ムーアはこの説明を試みる。「1980年代のレーガノミクスからの新自由主義、規制撤廃が、このような荒廃のアメリカに変えた」という。批判は、一つの政策、個々の政府の問題を超えていて、新自由主義という現代資本主義そのものに向かっている。

 ムーアによると、アメリカ国民は富裕層にこれまで反抗してこなかった。その理由は、アメリカン・ドリームであるという。つねにエサを見せられ、「いつか僕も金持ちに」と信じてきたからだ、「いつか僕も金持ちにと信じる」ことは、人々を団結させないで、孤立させるという。確かにそうだろう。

 オバマ政権誕生のためにムーアは尽力したようである。オバマ政権は、イラク戦争に反対し、危機のもとでの生活破壊に苦しむアメリカの下層の人々が、誕生させた政権である。しかし、だからと言って、オバマ政権はアメリカ下層の人々の政権ではない。ムーアのオバマ政権に対する微妙な態度は、この矛盾に起因している。
091222 マイケル・ムーア『キャピタリズム』001.jpg
<パンフレットから>

4)以前見た光景ではなかったか?
 住みなれた家を追い立てられる光景は見たことがあるような気がする。
 ジョン・フォード監督『怒りのぶどう』(1940年)だ。1929年の世界恐慌から農業恐慌へと続いた1930年代、ヘンリー・フォンダ演ずるオクラホマの農民・ジョード一家が没落し、土地を失いカルフォルニア流れていく。その時土地引き渡ししを拒否する一家に銃を構えて追いだしたのは、ニューヨーク在住の不在地主に雇われた私兵・ビジランテだった。カルフォルニアの農園で労働組合を結成しようとしたら農園主に雇われたビジランテと殴り合いになる。ビジランテとして雇われた何人かは同様に土地と職も失った農民でもあった。
 映画『キャピタリズム』が描き出した、ローンを支払えず家を追い出される人々と、たぶん本質的に同じだし、同じ光景だ。
 聞き洩らしたのだけれど確かウッディ・ガスリーの歌を使っていたようだ。最後の字幕に彼の名を見た。そして、歴史的に見ても同質の繰り返しではないかと思った。

5)危機をもたらしたのは、キャピタリズム
 経済危機と金融資本を批判するムーアは、現代アメリカ社会では何度も「社会主義者」であると非難されるらしい。映画のなかでも出てくる。2008年の大統領選で共和党・マケイン候補がオバマを「社会主義者」と批判するキャンペーンを行った。ところが、非難すればするほど、オバマ支持が広がったと紹介されている。だから、アメリカで「社会主義者」批判キャンペーンを浴びることは、正しい主張をしていることを裏から証明するという一面を持っている。ムーアはその事実を的確に理解し、非難キャンペーンを笑い飛ばしている。

 しかし、それだけではない。ムーアの資本主義批判に対して、「では対案は?あなたは社会主義的考えなのか?」と問う者がいる。ムーアは「自分は社会主義者だ」と「居直る」ことをしていないし、できないらしい。「アメリカの1%の富裕層が、95%の下層の富以上を所有している。それは民主主義ではない」という。そこで何を持ち出すかというと、フランクリン・ルーズベルトだ。あるいは、実際に従業員すべてがオーナーであり給料も平等にして、かつ利益を生んでいるカルフォルニアの会社を紹介したりする。

 「アカ」という批判に対しては、ムーアは苦労している。今回の世界経済危機が、「キャピタリズム」の本性から来ることを暴きだしながら、ではあるべき対案は資本主義の変革をどのように実現する社会であるか、について苦労している。実際には、対案として「社会主義」と述べるのが難しいところに立っている。そこは現時点におけるムーアとアメリカの民衆運動の微妙な立ち位置であろう。ただし、ムーアは決して後ろ向きなのではなく、むしろ人々の間での議論によっていずれ解決すると考えているようである。

 「社会主義」と言わないで、あるいは言えないので、「脱経済成長論」などという言葉を「発明」する向きもあるが、そのふまじめさに比べればムーアは前向きであって、本質的には異なる。アメリカ発の世界的な経済危機、世界恐慌は、資本主義そのものの本性から来ることを、認識し批判しながら、資本主義の変革・対案・オールタナティブとして、何が現実的なのかをさし示すことが困難な現代アメリカ社会において、ムーアはもがいて奮闘していると言うべきだろう。もがいて奮闘しているムーアを支持する。ムーアの言うとおり、「話し合い、議論の場と話題を提供し、活動していく」というのが、現時点でのありうる実際的な態度でもあろう。

 日比谷シネマシャンテで上映中(文責:児玉 繁信)
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メルセデス・ソーサが死んだ [映画・演劇の感想]

メルセデス・ソーサが死んだ

 毎日新聞10月6日朝刊によれば、4日、ブエノスアイレスの病院でメルセデス・ソーサが死んだとありました。七四歳でした。
 
 もうずいぶん前になりますが、一九七七年来日したことがあります。
 長い黒髪に大きな瞳の小柄な人でしたが、声量は大きかったことを覚えています。憤りをぶつけるように激しく荒々しく、時には人々に語りかけるように低くやさしく、説得力と包容力のある歌声でした。表情豊かなその歌声が印象に残っています。

 一九七〇年のチリ・アジェンデ政権が成立していく過程で、音楽を通じて社会変革をめざす「ヌエバカンシオン」(新しい歌運動)が大きな影響力を持つに至り、チリだけではなく南米各国で共鳴するかのように、それぞれの伝統的な民族音楽を研究し尊重し、そのうえで人々の現代の暮らしと感情を率直に歌う新しい歌が生まれてきました。「ヌエバカンシオン」は、人々に自分たちのこと、世の中のことを歌に歌い、そのことであらためて見つめなおし、さらに人々と共有し、関係をつくり、新しい社会をつくりあげていく運動の一翼をにないました。メルセデス・ソーサはそのなかにいました。代表的なひとりでした。
 しかし一九七三年、米国政府・資本の後押しによってピノチェットがアジェンデ政権を倒し、南米各国で軍事独裁政権が成立し、反動化が進みました。ソーサ自身もアルゼンチンの軍事独裁政権によって夫を殺害され、七九年には自身も身柄を拘束され、のちにフランスやスペインに国外亡命を余儀なくされました。ちょうど来日した七五年や七七年のころは、ソーサにとっても、つらい厳しい時期だったと思います。

 そのようななかでも変わることなく、人々のために歌い続けたソーサに、心から敬意を表します。

 晩年のソーサのほほ笑んだ表情を眺めながら、この人の歌を聞くのが好きです。目が細くなり豊かに笑います。原住民の血が現れるのでしょうか。そのようなことにさえも親しみを覚えます。
 ソーサが亡くなってしまっても、彼女の歌がずっと人々のあいだで歌われ続けていくことことを望みます。(文責:吉)
 



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映画「ポチの告白」 [映画・演劇の感想]

映画「ポチの告白」、 監督:高橋玄、2006年作品
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 4月末たまたま横浜で上映中だったのを知り、見る機会があった。
 題名「ポチの告白」があまり直截的なので、どんなだろうと疑問のようなものをも持ったが、観る前の予想を越えたなかなか立派なよくできた映画だった。脚本も撮影も丁寧につくられている。感心した。

 現代日本における警察の実態をとにかく暴露してしまおうという製作者の強い意思を感じる。確かに、最近のTVドラマが描き出す警察の姿は偽善に満ちたもので、TVもマスメディアもなぜこうも警察のちょうちん持ちをしなければならないのかといつもうんざりさせられるのであるが、それもこれもこの映画の主張するとおり、TVもマスメディアも警察と一体の利益共同体、同じ穴のムジナだからであろう。この映画と比べてみるならば、そのことがよくわかる。
 現代日本の支配機構の一つである警察が、いかに大きな力を持つに至っているか、警察による「支配」が拡大している実態をよく描き出している。警察ばかりではない、裁判所もマスメディアも同じ支配機構として日本人のまえに立ち現れている。警察は権力機構の一部でありながら、自身の利益を独自に追究しする利益共同体集団として、コントロールを失いがますます大きくなっている。暴力団のシマを奪い取っているのは日本最大の暴力団・警察である。
 適当なところで妥協せずに、現代日本における警察の実態をとにかく暴露し描きだしているところに、この映画の第一のよさがある。

 描写が実にリアルであるとともに、脚本全体の統一性も持っていて、観客を充分、説得し納得させるところに、第二のよさがある。普通のまじめで実直な人間が、警察組織のなかで極悪人になってしまうこの叙述・描写は生き生きとしており、なかなか見事だ。

 まじめで実直な警官・竹田八生が、組織犯罪対策課課長・三枝に見出される。刑事に昇進した竹田が、三枝の言うとおりに従い、刑事としての任務を命令どおり実直にかつ盲目的に遂行していくなかで、麻薬密売、巨額の裏金作りに手を染め、そのことで竹田自身が変質していってしまう。そして、三枝の後任の組織犯罪対策課課長に昇進していく過程、姿がリアルに描き出されている。

 竹田の指揮した麻薬密売で「同業者」として振舞っていた警視庁現職刑事・兼頭が殺される。そのことをジャーナリスト・草間と新聞記者・北村が警察ぐるみの麻薬密売・裏金作りとして告発する。署長となった三枝は、この告発から逃れるため、竹田刑事と奈良巡査長らによる個人的犯罪、すなわち「トカゲの尻尾きり」として竹田に罪をかぶせて処理し、警察ぐるみの犯罪を隠しその追及を逃れる。その際に、裁判官や新聞社などのメディアをもコントロールする警察の姿を描き出す。

 まじめで実直な竹田が「極悪」な刑事に変質していく描写が、リアルで見事だ。この映画の命ともいうべき特質だ。人間は変わるものだということ、そして変えるのが現存する日本の警察組織だということ、したがって現代の日本警察がいかに反社会的な存在であるかを、この映画はよく描き出している。

 警察なる組織自体が、利益実現のための共同体として自身の欲求のため自己増殖する生命体である。人体における丁度「がん細胞」であるかのような姿、日本社会のなかに生まれ、日本社会を食い破って大きくなる「がん細胞」としての姿を、映画は明瞭に指摘している。脚本家の意図ははっきりしている。この指摘はまったく正しい、まったく適切なものだ。警察組織が、自身の独自な論理でこの日本社会に寄生している様を、そしてますますどんどん大きく凶悪になっている様を描き出しているのだ。

 三枝は、「やらせ」による「暴力団の拳銃摘発」で成果を挙げ、署長に昇進する。竹田はその後任となる。竹田が「トカゲの尻尾きり」として棄てられたのは、竹田が三枝の尻尾をつかんでいなかったからだ。部下の山崎らの尻尾をつかんで、弱みをつかんで、支配していなかったからだ。三枝はその点は抜け目がなかったので、支配を貫くことができた。
 警察が暴力団のシマを乗っ取り、唯一の競争相手のいない日本最大の暴力団になっている。
 まるで資本が価値の自己増殖で大きくなるのと同じように、警察もその「裏金作りと裏金分配」の一層拡大するという論理で、日々自己増殖している。この利益に警察全体が、上層も下層もまきこんで、いわば「警察ぐるみ」でこの「事業拡大・利益分配」にいそしんでいる。

 個々の描写もリアルで説得的だ。実際に起きた事件を題材にして脚本は書かれているという。
 どうやら在日朝鮮人であったらしい山崎に対して、署長の三枝が「日本人にしてやった」ことで絶対的に従属させ支配していることなども描き出されている。これなども実にリアルだ。
 山崎が三枝署長を殴り倒すことを夢想するシーンなどもいい。観客は山崎の「感情」に自身を重ねてつい観てしまう。映画は時間を巻き戻しまるで何もなかったシーンを続けることで、山崎の夢想であったことを観客に納得させる。これなどもなかなか手の込んだしかも適切な、そして映画にしかできない技法だ。こんなところにも感心する。監督や脚本家の力量に感心する。

 竹田が裁判で何も喋らないようにと、三枝署長が裁判長に電話するシーンがまたリアルだ。裁判官の日常生活を監視していて、それを脅しのネタにする。この裁判長役の俳優はどこか見た顔だと思ったが、あとでチラシを観ると宮崎学とある。
 また警察が新聞社を操る場面が幾度も描写される。警察発表をもらって記事にする新聞社・新聞記者、「記者クラブ制度」というシステムが作り上げられている実態を描き出す。これまた適切な描写ではないか。

 最後に竹田が獄中でなかば「錯乱」状態で叫ぶ。事実錯乱として処理されるであろう、竹田の「叫び」=「告白」は、すなわち「ポチの告白」で終わる。竹田の「錯乱」は、切り捨てられた人間の怒りと警察ぐるみの犯罪に抑えつけられてしまう実情との葛藤や矛盾の表出であろうか。監督は、竹田に錯乱させ、錯乱の背後に存在する葛藤を観客に訴えている。こういうところなども、ハッピーエンド、勧善懲悪などにせず、リアリティを失うことなく日本の実情の上に立って、監督の主張・批判をしっかり提示しているところなども、よくできていると思う。観た者もこのメッセージをしっかり受け取るであろう。(文責:児玉繁信)

全国順次ロードショー公開中!
2009年5月18日~31日 アップリンク・ファクトリー
東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F、TEL : 03-6825-5502

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映画『花はんめ』 金聖雄監督 [映画・演劇の感想]

映画『花はんめ』 金聖雄監督 2004年作品

1) 一月ほどまえに下高井戸シネマで観た。
 これはドキュメンタリー映画だろうか。監督は特に脚本をあらかじめ準備していないように見える、実際は違うかもしれない。在日一世のおばあさんたちである「はんめ」を追い、そして引き込まれ魅入られている。観客も魅入られる。たぶん監督は自問したのではないだろうか。引き込まれるものは何か、と。この問い直し、見つめ直しによって映画はできあがってきたように見える。
 「はんめ」たちの暮らし、しぐさ、仲間うちで発する言葉、持つに至った考え、何も飾ったところはない。獣が身体を寄せあい温めあっているかのような、密接な互いのつながりを大切にして生きる姿、これまでの暮らしてきた関係そのものでもあったろう。
 この映画の特徴の一つでもあるのだが、「はんめ」たちを見つめる眼が(映画だからカメラが)、一貫してやさしいのだ。監督は「はんめ」たちを尊重し、あるがまま受け入れようとしている。あるいは自分たちにとって大切なものを扱うかのような態度をとっている。映画は特に主張しないし、何かを押しつけもしないが、やさしい視線は充分に観客に伝わる。

 2)はじめのほうのシーンで、「はんめ」たちの住む川崎の街が映し出される。古い木造アパート、ブロック塀、狭い路地、手押し車を押してゆっくり歩く一人の「はんめ」。歩みを止め中空に視線をあげる。路地脇の樹木らしきものを見上げている。背景に自転車に乗り近づいてくる少女が映し出される。何か配達しているのだろうか、車が近づいて左折し姿を消す。何ということのない日常の風景、ゆったりとした時間が流れる。「はんめ」はこの路地にぴったりはまり込んでいる。住みついた川崎の一角、彼女たちの今の「ふるさと」、生活の場所なのだ。中空を見つめていると思われた「はんめ」は、そうではなく後からくる仲間を待っていたらしい。後ろから一人、そしてもう一人「はんめ」が続いて画面に現れてくる。ゆっくりと。
 何ということのない街風景だけれど、このシーンは映画のなかで「美しいもの」の一つだと思う。監督が「美しい、あるいは味わいふかい」光景と感じ取りフィルムにとどめたはずだ。

 映画は自然にというか必然的に、「はんめ」の一人、「清水の姉さん」を中心に映し出すように変わっていく。この人のアパートにいつも「はんめ」たちが集まり話をし、食べる。「清水の姉さん」は、人が来ると食べ物をすすめる。腹を空かしたつらさと、人から食べ物をすすめられる嬉しさを知ってきた人なのだろう。あいさつのように食べろよとすすめる。
 このような人間的関係にかつての在日一世たちのつながりの痕跡を観客は発見する。この人たちは戦中戦後こんなつながりを互いに大切にして生きてきたんだろうなあと思わせる。それも美しいものだと思う。
 「清水の姉さん」は決して、人がよくておとなしいというばかりではない。国会中継であったと思うが、つけっぱなしのテレビ番組をチラッと見上げた後、「政治家ってのはみんな泥棒だからナ」と吐き棄てるようにつぶやく。監督はこの言葉と表情を逃さなかった。いたぶられ通しの生活のなかで身につけた山猫の心だ。
 
 トラジの会といって、毎週水曜日におばあさんたちが集まってくる。話をし、歌い踊り、そして食べる。トラジの会では自分自身を取り戻したかのようにはしゃぐ。みなこの集まりを楽しみにしている。一人暮らしの人もいる、たぶん家では話す相手もいない。人生の大半を日本で暮らしながらも、日本人相手のデイケアセンターでは孤立感を感じてしまうのだそうだ。日本語の読み書きが不自由な人もいる。朝鮮人として現在もなお日本に暮らすことを強いられ、今も孤立した老後の生活と闘っている。

 この映画は何を描き出したかったのだろう、と問うてみる。監督の視線はやさしい。実にやさしい。それが心地よい。登場人物に対する尊敬・尊重がある。「はんめ」たちが、戦中戦後の苦難の生活を経てきたことに対する尊重がある。カメラのやさしさはこれからくる。いい映画だと思う。監督は金聖雄という在日の人だそうで、在日であるからこそこのような「発見」をしたのだと思うし、そして貴重な視点だと思う。

 3)しかし、このあまりのやさしさは何からくるのだろうか。そのことを踏み込んで考えてみる。日本人だけではなく在日の若い世代にとっても、一世の歩んだ道、生活、歴史がナマのものではなくなっている、何か記録や語り伝えられたもの、自身がそこから生まれながらも、自分自身のこととして考えるのが希薄になっている、果たして自分自身はどこに成立するのだろうかという自問が感じられ、自己主張するスタイルから遠い若い世代の特徴と関係しているように思われるのだ。在日の一世とは全くタイプの違う人たち。この人も自分たちの「アイデンティティ」を捜しているのかなあ、などと思うのだ。
 映画の持つ「やさしさ」は、暖かい人間的な心情と共に、若い世代もつ遠慮がちに歴史と現実の社会関係を見る態度とも関係するのではなかろうか。自分自身やその利益を主張することに遠慮がちであることの裏返しではないのか。映画のナレーターは監督自身だそうで、その穏やかな声色さえ遠慮がちに聞こえる。
 この映画はあまり主張しない。主張するスタイルからはほど遠い。(とはいっても決して自身の主張を前面に出せと、要求するわけではない。)ただ、この人が主張するとしたらどのようにこれを行うのだろうか、と考える。「はんめ」の姿を借りて、自身の母親や祖母の世代の要求を通じて表現するのだろうか。

 このあたりに、わたしの小さな不満はくすぶっている。決して悪い映画だといっているのではない。いい映画だ。細やかな心情を描き出したいい映画だ。破綻していないし、この映画のような描き方はありうる。「はんめ」の姿を描き出すことに失敗はしていない。「はんめ」を尊重することもちろん大事だが、しかしその後ろに自分たちが隠れておればいいわけではない。「ひかえめ」というのは決していつも賞賛されるべき「態度」ではない。戦中戦後の苦難の生活を経てきた一世に対する尊敬と尊重の上にたって、それが次に問われると思うのだ。(文責:児玉 繁信)


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映画「コマンダンテ」 [映画・演劇の感想]

映画「コマンダンテ 」  オリバー・ストーンがフィディル・カストロに密着してインタビューした記録映画 7976256.jpg <映画のパンフレットから>  1)はじめに  この映画を観て一つの映画を思い出した。『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)だ。奥崎謙三を撮ったドキュメンタリーのような映画で興味深くはあったが、監督が奥崎に引っ張りまわされ監督の意図が貫徹していない、そもそも意図が希薄だ。貴重な素材を扱いながら何を撮ったのか、何を撮りたかったのか、希薄なのだ。監督の見識の希薄さがそのまま出ていた。  さて、映画『コマンダンテ』も同じようなところがあって、監督オリバー・ストーンの意図が貫徹していない。監督の意図を超えて、あるいは監督の見識の希薄さは確かに存在するがそれを超えて、コマンダンテ・カストロの人物像と現代キューバの実情が、断片の積み重ねではあっても鮮やかに描き出され、結果的には貴重な映画になっているのだ。『ゆきゆきて神軍』と大きく違っている。  2)オリバーのこと  オリバー・ストーンはベトナム戦争に従軍し二度にわたり負傷した経験を持つ。映画『プラトーン』でベトナム戦争を闘った米兵の軍隊生活、米兵の扱われよう、惨めな死を描いた。栄光に満ち賞賛される兵士だけの米兵像に異を唱え、米兵も一人の苦悩する人間として描き出したこの映画は、米国民に衝撃を与えた。その点では貴重な映画だった。  しかし他方、ベトナム人はまるで小動物であるかのように描かれ、人間扱いされていなかった。オリバーの「人間的感情」には「国境線」が厳として存在していた。ストーンのヒューマニズムの適用範囲は米兵までであって、解放戦線や北ベトナムの兵士や民間ベトナム人にまでには及んでいなかった。ベトナム人の内面に迫ろうとはしていなかった。  3)インタビューを重ねるスタイル  さてこのオリバーがカストロにインタビューする。2002年と画面に紹介される。  オリバーの質問内容やそのスタイルは、カストロの返答に比べて対比されると明確になるのだが、アメリカ的実証主義とはこんな考え方であることを鏡のように映し出し描いてしまう。オリバー個人の考えもちろん出ているが、でもそれを超えて現代アメリカ人ジャーナリストの問題の捉え方、皮相的な「事実」を重ね「ディベート」に秀でた「IQが高い」とされる現代アメリカ知識人の一つのタイプが、カストロに対比されて現れくるのだ。カストロの応答といかに違っているかを描き出してしまうのだ。  もちろん、オリバー・ストーンが現代アメリカにおいては、より「ましな」映画人であることはよく承知しているつもりだ。  オリバーは一言の回答を求める。その要望に沿って、カストロは丁寧に率直にそして当意即妙に一言で答える。そのことで、カストロがいかに知性溢れる人物であることを表現してしまう。オリバーはカストロの欠点やキューバ社会の欠点をあぶり出そうとしたが、あぶり出たのはカストロがいかに魅力的な知性溢れる人物であるか、偉大な知性であるかだ。  ブッシュや安倍など現代資本主義国の政治家たちが、例えば同じようにオリバーの質問に曝されたら、たちどころに馬脚を現してしまうだろうなどと想像さえしてしまう。たぶんこの違いを観客はたちどころに理解しただろう。  4)何があぶり出ているか?  観た誰もがカストロとカストロに象徴された現代キューバ社会の生命力を受け入れざるを得ない。このドキュメンタリーのすぐれたところなのだ。  アメリカでこの映画上映が禁止されている理由でもあるのだろう。「自由の国アメリカ」の「自由」がたいしたものであることがたちどころに判明してしまう。  カストロは話せばわかってくれると信じているのだろう。「自分は人を説得するのが好きだ」と語る場面もあって、誠実に話せば最終的にはわかってくれるというカストロの確信に似た考えも明確になってくる。彼は一貫してオリバーに自分の考えを語っている。オリバーのくだらない質問にも、問題をどのようにとらえるべきかという、より現実的な包括的な把握へと組み替えようと努力している。  私は当初、こんなに丁寧に説明しても無駄であろうと思った、しかし、違った。オリバーはカストロの考えをすべて受け入れたわけではないし理解したわけではないが、カストロの問題接近の態度に信頼を寄せるに至っている。インタビューまえに比べて、確かにカストロの魅力に引きつけられた。  こういうカストロに感心する。揮発性の香を発する柑橘類かのように、人をひきつけてやまない。現実の認識を提起し議論し解決の方向を提示し、人々と共に問題を切り開いていこうとする態度が魅力的だ。こういう人々との関係、社会関係を築きながら、皆と一緒に実際の問題に対処し解決していくこの形態が、現代世界に求められている姿ではなかろうか。私にはとても魅力的に見える。  カストロがつくりあげようと試みているのは、現実社会に対する徹底した批判を、生きた人々のあいだで共有し、問題に立ち向かって行く人々の間の新しい関係(批判的アソシエイション)を立ち上げて行こうとすることであろう。  こういう批判的関係を何度も繰り返し立ち上げながら、われわれの歴史は少しずつ、あるいはダイナミックに前進するのだと思う。  5)いくつかのシーンについて  カストロは後継者問題を尋ねられて、後継者によってキューバ社会が混乱するというオリバーの理解の誤りを指摘するかのように、後継者を誰にするかも重要だが、キューバ国民の政治的成熟を信頼しているし、その点で心配していないと語った。  死を避けたいか?と問われ、避けられないと即答した。「それは希望して変わるものではない」。人生を二度すごせたらいいとある人物が言ったがどう思うかと問われ、「そのような考えを持つに至る事情は理解するが、そんな考えを自分は持たないし、またもつべきではない」、という。現代資本主義イデオロギーの説明する「独裁者」の心情を、カストロは持ち合わせていないことを証明してしまった。彼が個人的にものを考えるところからいかに遠いところにいるか明らかにした。  繰りかえす、現代キューバを診断するに当たり、「カストロの個人独裁」に要因を求めることに問題の焦点があるのではない。現代キューバ社会の生命力が何に存するかを見極めなければならないのだ、このことをオリバーは根底のところで理解していない。アメリカ的な個人主義、実証主義からは残念ながら根本的理解は出てこない。  もちろん現代キューバ社会も「欠点」を持っている。決して確固たる関係を築いてはいないし、危うい状態を決して脱しているわけではない。カストロにとって、あるいはキューバ国民にとって現代キューバ社会の「欠点」とは、オリバーが考える欠点とは、少々意味が異なっている。  キューバが抱える困難は、資本主義に政治的軍事的経済的に包囲され、経済競争も強いられながら、この先も生き残れるかという問題だ。きわめて特別な、キューバ固有の問題だ。キューバ社会の道行きは、現在もなお危うい条件に囲まれている。新自由主義に囲まれた現代世界でキューバが生き残るために、たどらなければならない道はきわめて細い。誤れば、崩壊する。これをきちんと見きわめ歩むことができるかにかかわる問題であり、この先も適切な対応をとり続けられるかということである。この基準に照らし合わせて、キューバ社会の欠点は語られなければならないし、改革されなければならないし、そしてキューバ社会はかわらなければならない。  この10年間キューバは、ラテンアメリカの一員として生きる道を模索し、実際にきり拓いてきた。ソ連解体後、ラテンアメリカの一員として生きる以外に現実的な道はなかった。南米諸国との貿易を拡大し、現実的で必要な経済関係を作りあげてきた。その関係のなかにキューバ社会主義が生き残り果たす役割を模索しつくりあげてきた。(トロツキーのいう『永続革命』ではないか)。  チェ・ゲバラのことに触れて、カストロが「チェは社会主義建設を行うにあたり資本主義の手法導入に賛成しなかった」と即答したことには少し驚いた。キューバではチェ・ゲバラは尊敬されていて、街角のギター弾きがチェを称える歌を歌い、革命広場の大きな肖像にもなっている。しかし、カストロもキューバ政府も、チェとの意見の違い、チェへの批判を率直に語るのだ。このカストロの問題意識は、60年代のキューバ社会主義建設にかかわる判断であるが、同時に90年代の危機にあたり新経済政策=「資本主義を檻の中で飼う」を導入して対処してきたことなどもあって確立している評価でもあろう。  学校の授業だろうか、中学生くらいの生徒がカストロのことを発表し合っているシーン。「カストロはいろんな過去の問題や理論的問題を知っているだけでなく、それらを現実の政治過程、人々の生活と行動の要請に応じて再編し表現する、行動の指針として表示する、そこがカストロの偉大なところだ」と14、5歳の子どもが語る。  オリバーが黒人系の人々が政治指導者に少ないことを指摘する。カストロはそれを認める。革命前、黒人層は奴隷状態にちかく最貧層を形成していた。革命によって教育も医療も生活も向上し政治参加も実現したが、現在でもなおその社会的差別が完全には解消していないことを認める。  警備の者たちもいるのだろうが、カストロが街に出て、率直に人々と接する姿にはあらためて驚く。カストロとキューバの人々との距離は驚くほど近い。現代キューバ人すべてとまではいかないが、ほとんど多くの人々がカストロに親しみを覚え、かつ信頼していることが映像の端々でわかる。  歴代のソ連の指導者たちの印象を語る場面もまた興味深い。「フルシチョフはまったく抜け目のない農民だった、でも彼に最も親しみを覚えた」という。女優ではソフィア・ローレンが好きだという。こういった断片の積み重ねで映画は構成されている。  6)映画に統一を与えているもの―――全体として有機的な体系をなすカストロの認識  オリバーの質問、それは意地悪いものもあるし、考えの浅いものもある。しかし、カストロはそのことを指摘しないで、怒りもしないで、その範囲内で率直に語っている。質問は断片的で、何の関連もなく皮相的な内容だが、カストロの回答はそれぞれ関連していて、全体として一つの有機的な体系をなしていることが徐々にわかってくる。誰もがわかるかどうかは別としても、オリバーだけではなく観客も次第に理解する。映画に統一性を与えているのは、監督ではなく、カストロの返答の統一性にある。個々の断片的返答が革命キューバの成立と現代キューバ社会を描き出しているのだ。それがこのドキュメンタリー映画を統一性のある偉大なものにしている。監督オリバーも注目すべきカストロ像とキューバの現実に触れ、彼なりに理解しそれを生かすように編集したようである。(文責:児玉 繁信)  追記:2007.12.26   カストロを評して「知性溢れる人物、偉大な知性」と書いた。  人によっては受けとった「知性」の意味が、当然違っていることもあるだろうことに、しばらくたって気がついた。  とすれば、私が「偉大な知性」と書いて済ませたのは、舌足らずということになろう。  私は、カストロが多くの知識を持っていると言っているのではない、また、彼のIQが高いといっているのでもない。次のようなカストロの思考と行動、態度の全体をもって彼の知性と呼んだ。  ソ連や東欧の社会主義が解体した後もなお、そして中国やベトナムが資本主義へ移行している現在もなお、この変化した条件のなかで、キューバ社会主義は生き残らなければならない。新経済政策を導入し、外貨を稼ぎ、資本主義を一部導入して生産力を高めなければならない。そしてまた、鎖国キューバ経済は成立しえないから、中南米を中心とする途上国との輸出入、経済関係を拡大し、そのベースの上に現在の社会主義キューバを存立させなおさなければならない。資本主義の導入は、当然のこと資本主義化への危険をともなうし、他方、グローバリゼイションや新自由主義に対抗できる基盤を、国内的にも国際的にもつくりあげなければならない。以前のままのキューバ社会は存立できない。新しい変化する条件に適応できるキューバに不断に変わっていかなければならない。これが現代キューバにおける社会主義建設の一局面なのだ。  あらゆる条件が変化するなかで、機能しなくなった社会関係を見きわめ、これを指摘するだけでなく変更する人々の関係を、上からの司令ではなく議論もしながら不断に、しかも人々の自主的な社会関係、連合体としてつくりあげていかなくてはならない。  このようなトータルな生きた国内的国際関係のなかで、これにどのように対処すべきかということにカストロの問題意識は集中している。  したがってあらゆることが有機的に連関し、生きて変化するととらえているし、そのなかでどのような行動、方針、キューバ社会、人々の関係をつくりあげていくか、ここに彼の問題意識、発言、行動は集中している。この彼の世界観と行動の指針をもって、私は「偉大な知性」と呼ぶ。少々強引な追記である。
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港健二郎監督、映画「ひだるか」を評す [映画・演劇の感想]

港健二郎監督、映画「ひだるか」を評す

1)「ひだるか」を評する前に
 「ひだるか」を評する前に下記の経過を記しておきたい。
 2006年8月、監督・脚本の港健二郎さんから、熊谷博子監督・記録映画「三池」についてわたしの書いた評(当ブログ掲載)にコメントをいただいた。そのコメントは指摘される限りでは正当なものだった。

 わたしは、記録映画「三池」について次のように書いた。
・・・・・・最初の部分は、教育映画のようでまるで、映像に命も動きもない。・・・・・・そうではあるが、三池炭鉱争議の当事者であった三井鉱山の労務担当者、新労の役員・労働者、三池炭鉱労働組合がそれぞれの立場から三池争議の歴史を「語りついで」、当時の写真や映像が織り込まれるところなどは、俄然映像が生きて動いているかのように活気を得て、それぞれの写真、証言がつながり、迫ってくる。間違いなくこれが映画の生命である。証言を並べて三池争議やCO中毒患者と家族の苦闘をドラマティックに描き出している点は、優れたところだ。・・・・・・
・・・・・・三池争議も描き、炭鉱の歴史も描き、それから熊谷監督自身の水で薄めたような「思い入れ?」のようなものも含まれていて、いいところも悪いところもすべて混じっている。・・・・・・
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 これに対し、港健二郎さんは、以下のコメントを寄せてくれた。
・・・・・・「三池」をあんなものだと思われたら困るというのが、正直な感想なのです。三池を語る時に欠かせない、三井独占の犯罪性が完全に隠蔽された作りになっているからです。一つだけ例を上げましょう。CO患者の怒りと大変さが描かれています。しかし、ああした事故が、何故、起こったのか?天災ではないのです。三井が、何故、刑事訴追されなかったのか?そうした話題が、法曹界で公然と語られる「企業犯罪」だったのです。そこが、ネグられているので、「不幸にも負けず頑張る女性たち」の物語に矮小化されています。・・・・・・
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 その時わたしは、港健二郎さんのコメントは指摘されている限りでは正しいと判断したし、そのように回答もした。もちろん批判をどのように映像で表現するかは、簡単ではない。

 このような経緯があって、映画「ひだるか」を楽しみにして、あるいは期待して観たのだ。

 しかし、「ひるだか」はわたしの期待を裏切る残念なものだった。以下にそのことを述べる。観た後に評を書いたが、あまりにも批判が多くなったことが気になって載せることをしなかった。
 ただ最近、港健二郎監督のレイバーネットでのメールから、次回作の計画があることを知って、それへの期待もあるので評は述べておいたほうがいいと考え直し、ここに載せることにした。言葉の足らないところもあると思うが、真意を受け取っていただきたい。


<チラシから>

2) 映画のあらすじ
 福岡中央放送が外資によって買収されリストラが確実だと設定され、これに対抗し労働組合が反対し、会社が第二組合を結成して労働者を分断する。現代において労働組合分断に当面する人たちを通じて、三池争議とは何であったかをあらためて見直そうとしている。
 福岡放送局で働くキャスターである主人公・陽子には、恋人である敏腕ディレクター・森嶋がいる。この恋人の力でリストラがあっても、彼女は会社に残れそうな立場にいるし、当初は残ろうとする。会社にはキャスターばかりではなく、現場で働く社員もいるし、下請け・孫請けの人たちも混じって働いている。働く人たちは、リストラに反対し労働組合に結集して反対しようとするが、会社側は、会社の残れることを餌に個人的に組合を切り崩して、会社の意図通りに外資買収・再建に賛成する第二組合を立ち上げてしまう。陽子も第二組合に誘われ加入するが、会社のやり方に反発を覚える。第一組合書記長への親近感は増していくようではあるけれども、しかし第一組合に参加しみんなで戦おうとするわけではない。この過程で陽子らは、三池闘争を振り返るドキュメンタリー番組を作ることになり、三池闘争を改めて見直す。
 陽子はこの外資による買収が、地元の人々に根ざした放送局でなくなることに反発を覚え、番組内でニュースキャスターの立場を利用して、勝手に予定を変えて福岡中央放送の外資による買収を批判的に報じる。陽子はあくまで個人的に振舞う。放送は中断され、陽子は赤いスポーツカーに乗って放送局から走り去るシーンで映画は終わる。

3) 映画の問題点
 この映画は問題点が多く、わたしは決してよくないと思っている。そのことを下記に書くが、それは監督、脚本家をおとしめようとして書くのではない。次回作に期待し、よりよくしていただきたいという気持ちから書いたつもりだ。言葉の足らないところはご容赦願いたい。

3)-1 会社と労働者の対立の描写は正当か
 福岡中央放送はドイツ資本によって乗っ取られ、リストラが始まる。それまで陽子らの生活や仕事、職場は平穏であった。しかし「外」から問題がもたらされる、それとともに政府による放送法改悪、規制緩和にも原因があると設定される。
 この構図は果たして正当だろうか?
 平和に暮らしていた社会に、突如「外」から破壊がもたらされる。敵は外資と日本政府で、地元に密着した放送が破壊されるという構図が設定される。こういう描き方は、現代日本の様相を正しく捉えることになるのか?ということ。会社幹部を何かしら通り抜けて、外資と日本政府が問題だ、と描かれているように見える。労資の対立が深刻なものとして提示されていない。少々気にかかる。

3)-2 労働組合の分裂、その描写は本当か
 それからよくわからないのは労働組合の分裂。
 労働組合が分裂させられたというのに、会社内や職場での厳しい非和解的な対立、人間関係の破壊はまるで起きていないかのようだ。人間関係は破壊され、追い詰められる人も出てくる。人格が破壊される人も出てくる。しかし、全く不思議なことに職場の雰囲気は「平和的」だ。これは果たして本当か?現実を描写していないのではないか。
 実際に、三池争議ではこのようではまったくなかった。陽子の父が逃げるように大阪へ出てきたのも、組合分裂とその中での人間的信頼の破壊、人間そのものの破壊があったからだ。(映画は、父の苦悩を具体的に描かない。抽象的に言葉で説明するだけだ。こういうところもよくない。具体的な映像でもって、人間的感情を描き出すべきだ。言葉の説明で済ましてしまうのでは、映画にする必要がない。)
 脚本家は組合分裂がどのようなものであるか、本当のところわかっていないのではないだろうか。知識としての「組合分裂」は知っているかもしれないが、肝心のところはわかっていないのではないか、このように疑わざるを得ない。

 労働組合の若い書記長の形象と彼の役割について。
 陽子が森嶋から別れるに当たり、陽子が心を動かした人物である。彼が、対置すべき人物像の一つであることは間違いないだろう。
 書記長の言葉で興味を引いたのは「会社主導によって第二組合がつくられ、組合が分裂したことが三池争議敗北の原因だ」と断言したことだ。間違ってはいない。確かにその通りだろう。あまり時と場所を無視して言うのはよくないが、福岡中央放送労組にとっても分裂が敗北の原因になる可能性は大きいのだから、組合分裂に対抗してどのような活動をしていくのか、観る者はドラマの展開に期待する。書記長たちが自分たちのとるべき行動として、何を提示し奮闘するか期待して観る。どのように三池の伝統を引き継ごうとするだろうか。
 しかしこの人物も含めて、みんな組合分裂を非難はするが、どのように対抗しようとするのか、その追究はない。三池争議のときに炭労はどのような方針のもとに活動したか、組合分裂に際してどのように対処したか、こんなときに労働組合にはどのような活動が必要なのか、こういう場面は描かれない。労働組合で組合員が論議し、一緒に行動する場面もあまりない。「三池のときはこうだった、だからこうしよう」などという場面もない。「第一組合が正当だ、自分たちは正しい主張をした」とだけ言っているだけのように見える。
 わたしは、書記長たちの判断と行動、奮闘のシーンだけをたくさん入れろと言っているのではない。しかし、「三池争議の伝統を引き継ごう」といいながら、言葉だけに終わっているのは、やはりおかしいと思うのだ。

3)-3 陽子や労働組合の主張
 それから、陽子も労働組合も、「地元視聴者のための福岡中央放送でなくなる」という理由で買収・リストラ反対の声をあげている。果たしてその理由で会社攻撃に対抗できるか?

 映画は、首切り・リストラに反対しはするが、首切りが深刻な人権侵害であり生活破壊だから、これに反対するように周りに訴えることはあまりしない。
 なんと主張するか?
 福岡中央放送は地元の視聴者のために放送を提供してきた、地元の視聴者の利益を守る、買収は「地元ユーザー、お客様の利益のため」ならない、したがって買収・リストラ反対する、というふうに主張する。それは陽子も労働組合も同じだ。会社による自分たちの権利侵害を暴露し、告発し、労働者と労働組合を支援するように訴えない。「リストラは地元の視聴者の利益とならない」と遠慮がちに主張する。

 現代日本の会社においては、「ユーザー、お客様の利益のため」なる理由を楯にし、あるいは振りかざして、資本家や経営者は社員教育を行い、労働者の団結を破壊し、非正規雇用を拡大し、リストラや人員整理が行われている現実が、われわれの眼の前にひろがっている。この現実を脚本家のみならず、誰もが認識しなければならない。
 しかし、脚本家は「ユーザー、お客様の利益のため」なる理由で対抗すべきと考えているようである。これは正しいか?すでに理屈において負けていないか?なぜ、自分たちの生活擁護をまえに要求・主張しないのか?正しくない。仮に「地元視聴者の利益のために放送を再編成しリストラする」と言われたら、陽子や労働組合の書記長はどうするのだろうか?全く対抗できないではないのだろうか?

 自分たちの利益を主張する「だけ」ではまわりの支持が得られない、という「利口な」判断をしたつもりなのだろう。しかしそれは単に、自信を持って自身の権利を主張できないことを示してはいないか。こんなことでは、あるいはまわりまわって、労働者のストライキ権を否定することになってしまうだろう。「ストライキすれば地元の視聴者に迷惑がかかる」と、常に資本側、政府側から非難されるが、自分からこれに屈服することではないか。
 三池争議を闘いぬいた炭労や三池労働者は果たしてこのように考えたか?こんなやり方をしたか?明らかに違うだろう。このような考えでは「三池争議の伝統を引き継いだ」とは決して言えない。
 三池争議を評価しその闘った伝統から離れることを、映画自身が表明していることになるのではないか。もしそうであれば、このような判断は、すなわち映画「ひだるか」が主張するこのような判断は、間違いでしかなくなる。

3)-4 陽子は「新しい女性のタイプ」か?、脚本の破綻
 確かに陽子は、自分で考え、個人で行動する。大学時代の恋人と別れ、福岡に就職するのを見ても、自分で決めている。そのような形象として設定されている。
 陽子は大学卒業後、望んでいた東京の放送局へ就職ができず、九州の福岡中央放送に入社する。このとき叔父である父・謙作の弟がこの会社にいて、頼んで入社した。コネ入社である。陽子は特に何とも感じていないようである。三池争議で正義を主張する労働者の声に注目する陽子が、なぜ鈍感にもコネ入社したことに罪悪感を感じないのか、不思議だ。謙作とずいぶん違う性格のようだ。済んだことは済んだこと、あるいは利用できる者は利用してしまえ、という考えの持ち主として設定されている、と観る者は判断せざるを得ない。
 終わりに近い場面で、キャスター・陽子は天気予報の放送中の時間を利用して勝手に、「福岡中央放送が外資に乗っ取られ、地元の視聴者の利益が損なわれる」ことを訴える。ここでも労働者の首切り、人員整理への告発はしない。訴えの中心ではない。
 この行為自体は、子供じみたものであり、放送の私物化と批判されて処分されても抗しきれないものだ。会社主導でつくられた第二組合に入っている陽子は、労働組合に結集し、方針を皆で討議し、行動することをしない。あくまで個人として行動する。しかもこの場合は「特権的」なキャスターの地位を利用して、視聴者に勝手に訴える。

 このあとたぶん、陽子は処分され、解雇され職を失うだろう。
 このような、自身で考えひとりだけで行動する陽子なる形象は、果たして新しい人物か?
 確かに陽子の気分は一時的にはスッキリしたかもしれない。しかし、それだけではないか。何の解決にもならない。
 陽子の行動に意味はあるのだろうか? 労働者として意味はあるのだろうか? 「決してない」と言わなければならない。三池闘争での父・謙作の反省さえも少しも考慮されていない。「三池闘争の伝統を引き継ぐ」観点からすれば、あえて「ない」といわなければならない。
 他の労働者が「新しい人間・陽子」に習って行動するとすれば、何をすることになるか。仕事を途中でほうりだして、上司に文句を言って、もちろん「ただの文句」ではなく「正しい主張」をして、啖呵をきって退職することである。これは何の解決になるのだろうか。
 歴史的にもあるいは現在でも、陽子のように行動してきた者はたくさんいる。しかし何の解決にもならない。人員整理は行われる。働く者の生活は破壊される。これは何度も繰り返された敗北である。
 陽子にとっては気分がスカッとするかもしれない。あるいは管理職であるディレクター・森嶋に別れを告げ、新しい生活に踏み出す意志を示したことに、かろうじて意味があるかもしれない。しかしそれだけだ。こののち、陽子が同じような事態に当面したら、彼女は威勢のいい啖呵をきって、出ていくのだろう。陽子は「群れる」のは嫌いだ。とすれば、確かに陽子はこの先、それ以外には振舞うことはないし、それ以外にできない。

 こういうタイプの人物なら、別に新しくなどない。わたしのまわりにもたくさんいる。警備会社で働いていたが派遣先の病院で人間扱いされないため、「バカにするな」と啖呵をきってやめた年配の友人がいる。彼は非人間的な扱いを前にして、抗議し、会社を辞めた。もちろん次の日から職を失った。陽子との違いは、彼が50代半ばで、スポーツカーを持っていないことだ。陽子のようにスポーツカーで颯爽と去ることはできない。更に違いがある。彼はこれを敗北だと知っている。こんなではなく何とか他の二人でも三人でもいっしょになって抗議できなかったことを悔やみ、労働組合があったらなあ、と考えている。あるいは反省している。
 陽子は果たして新しい、あるべき人間像であるか。現代の新しい女性のタイプか。わたしからすれば、陽子はこの知り合いよりも古い人物、魅力に欠ける人物であると断言するほかはない。

 映画のチラシにはこう書いてある。「この映画は、現代社会の矛盾を糾弾するのではなく、ひとりひとりの魂を目覚めさせることで、大きな力を、大きなムーブメントを引き起こそう、未来に繋げようというまったく新しいタイプの「女性映画」である。」
 これはとんでもない間違いだ。仮に陽子が目覚めたとして、大きなムーブメントにはならない。会社に抗議しての個人的、あるいは集団退職である。過去何度も繰り返されている敗北だ。抗議の退社で、会社は一時的に機能しない事態におちいるかもしれない、しかし会社は望むとおり人員整理ができたことになるではないか。陽子の行為は、なんら新しくもないし、新しい人間像でもない。未来に繋がりはしない。そのことを言葉でごまかしてはいけない。

 三池争議を調べ放送で紹介した陽子であるが、彼女のこの行動は陽子が三池の闘いをまったく学んでいないことを証明してしまった。これが三池争議を総括した上で出てくる結論であり行動であると主張するのであれば、とんでもない間違いだ。
 この間違いを陽子は自覚していない。自覚していなければ反省もなく、この先同じ間違いを繰り返すであろう。陽子はなんと鈍感な人物だろう。過去闘った人と現在戦い苦しんでいる人の痛みがわからない鈍感な人間だろう。

 この点は、最も不可解な、不思議なところである。
 監督や脚本家は意図的にこのような人物を設定したのだろうか。当初、反面教師的に描きだすための設定ではないか、と考えた。しかし、違っていた。陽子の考えは脚本家の考えであった。陽子が赤いスポーツカーで颯爽と走り去るシーンで映画は終わる。これが映画の描き出す結論なのだ。鈍感なのは陽子ばかりではない。残念ながら、監督・脚本家がそもそも間違っているし、間違いに気づかない鈍感の持ち主と判断せざるをえないのだ。

 このように見ていくと映画はいくつかのシーンで破綻を見せていることが明らかになる。
 陽子はしおりらの劇「ひびきの石」を観て、感銘を受けたとされる。陽子の受けた感銘とはどのような内容のものだったのか?意味不明となってしまう。
 もっとも「ひびきの石」は、劇中で紹介される場面だけ観ても安易であり、過去のあるいは現代の人々に受け入れられる内容ではないと思われる。非常に安易に映画中の劇としてつくられていたが、だとしても劇中に「ヤメテヤル」という人物はいなかった。陽子は「感銘を受けた」、「良かった」などといいながら、彼女のとった行動から推し量ると、物事を根本において捉えてる力のない人物、かなり軽薄な人物であることを観る者は必ず読み取るだろう。
 これは破綻である。監督・脚本家はこの破綻に気づいていないのだろうか?

 陽子の父・謙作は、弟の学費を確保するため、泣いて第一組合から離れ、大牟田から逃げた。そして死ぬまで自身の裏切りを悔やみ、誰にも話さなかった。陽子は謙作の秘密をインタビューの際に偶然知ってしまう。感動的な場面である。陽子は謙作を思い涙する。
 しかし、流した涙は「無理解」の上に成立した涙だったことが判明する。陽子は謙作の行動を克服するわけではなく、放り出して逃げた。謙作と違うのは、陽子は悔やんでいない、反省さえしていないことだ。陽子の取った行動は謙作の本当の苦しみを心底理解していないことを証明する。感動も何もあったものではない。台無しだ。監督・脚本家が、陽子の個人的「解決」をアッパレなものと本心から思い、このように描いているのだ。

 ここまで考えるに至って、わたしは本当に失望した気持ちになった。
 監督・脚本家は、三池争議の意味を理解していない、というより取り違えているのではないのだろうか。この映画は根本のところで間違っているのではないか。せっかくこのような映画をつくる機会を得ながら、なんというもったいないことをしているのだろうか。映画の終わりに上映実行委員会が紹介され、映画製作・上映運動を支援する多くの市民団体、労働団体の名前がでてくる。これらの団体の期待と援助のもとに準備されたのだろう。その期待を裏切っていることになるのではないだろうか。わたしはそのように思う。

3)-5 その他、表現上の問題
 上記までが言いたかったことのほとんどだ。以下に述べるのは、付け足しであって比較的小さな個別的なこと。

 映画の題名になった「ひだるか」は、大牟田地方の方言だそうで、「ひもじくてけだるい」という意味だそうだ。その意味を、映画では役者がせりふで説明する。「ひだるか」に相応する感情を映像で表現するのではなく、せりふで説明する。こういうのはよくない。映画にした意味がない。
 全体として、せりふは説明の言葉の棒読みが非常に多い。人物はしっかりと造形されておらず、生きて動き変化・発展する人物として造形されていない。特に陽子を演じた俳優のせりふ棒読みが気になった。表情が乏しく、感情の変化を演じることが十分にできていない。
 しおりの形象にしてもどうして劇団をやっているのか、人物の内的な心情の描写はなされない。祖父が大牟田出身と説明される。出身でその人の考え決まるのではもちろんないのだから、しおりはしおりの考えをもち、行動するに至った根拠を描き出さなければならない。
 陽子も父・謙作が大牟田出身であり炭鉱で働いていたとされる。三池争議は親族に三池関係者がいる者だけに限られた問題ではないはずなのに、脚本家は親族のつながりで説明している。実に安易だ。登場人物と三池争議との関係を、それぞれの現代に生きる人物のタイプの考え・性格・行動から、描き出すことができていないといわざるを得ない。
 言葉で説明してしまうのなら、映画にする必要はないのではないか。こういう設定でしか、人物を設定できないのは、脚本が良く練られていないこと、未完成であることを証明していることになる。

4) おわりに
 評として誤解のないようにできるだけ正直に書いたつもりだ。そのためずいぶん長くなってしまった。ただ、言葉は厳しくなってしまった。監督・脚本家の気持ちを萎えさせることになったのではないか、と心配する。決してそのつもりはない。次回作で監督にいい映画を撮ってもらいたいと期待もしている。(文責:児玉 繁信)


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民藝公演「はちどりはうたっている」 [映画・演劇の感想]

民藝公演「はちどりはうたっている

<パンフレットから>

 1) 民藝公演「はちどりはうたっている
 民藝公演「はちどりはうたっている」を観た。
 作品は明確に、戦争を起こしている米政府と米国支配層への批判を試みている。戦争のもたらす悲惨さを多くの人びとが知りながらも、なかなか戦争がなくならない原因を作者は、製品を生産し販売し利益を上げないと世の中がまわっていかない現代資本主義社会そのものにあると描き出した。軍需産業は常に顧客を求め、超大国の政府と一体になり、戦争を推し進めている。軍需産業ばかりではない、作品に登場する日本商社も、通常の資本活動のなかで民需も軍需も隔てなく、経済活動として加担している姿を描き出している。今日の世界の姿を抉り出そうとその試みはよく理解できる。
 脚本は松田伸子、演出は渾大防一枝。
 現代世界の問題点をまっすぐに率直に描き出そうと構想し作り上げた点で、きわめて意欲的な作品である。こんな作品にわれわれはめぐり合う機会はほとんどない、こんな作品を作り出した脚本家、上演した演出家、劇団に敬意を表すべきであろう。
 
 2) 物語
 物語は、カリフォルニア州サンノゼ支店に駐在する若いエリート商社マン・藤本晴彦のアパートを婚約者の陽子が訪ねていくところから始まる。そこに藤本の信頼する東洋の詩人ルー・シンや、商社の現地雇用パートで沖縄出身の可奈グリーン、藤本の先輩社員・日高、支店長・浦賀が次々に立ち現れて、それらの人物が、自身の立場から考えを主張しあい、その言い合いを通じて戦争を引き起こす現代世界の姿とその批判を描き出している。テンポよく登場人物に喋らせ、しかも描く人物をくっきり造形し提示しているこの脚本家の力量に感心する。
 作品の批判は、われわれ日本人にとっては「外」から持ち込まれた戦争加担に応じるか、拒否するかという問題として提示される。晴彦は、自社の営業活動に疑問を持ち、米国で反対行動を行おうとする詩人ルー・シンを心情的に支持する。当初わけがわからず混乱していた陽子は、言い合いの過程で自分の頭で考えて晴彦への信頼をあらためて深めていく。この陽子は一般的な典型的な日本人像として設定されている。沖縄出身の可奈は、沖縄戦と現在まで続く基地支配を告発する日本人として登場し、先輩社員・日高、支店長・浦賀は、会社の営業にとってそれぞれの米政府と軍需産業を是認する理屈を展開する。
 設定も巧みで、物語はテンポよくすすみ、観る者を引き込んでいく。
 
3) 作品の欠点
 ただこの作品は次のような問題点も持っている。戦争の原因は、悪の総権化・米政府と軍需産業にあり、これが自分たちを脅かしていると描き出され、したがって、晴彦と陽子の批判は、これに加担するかどうかと設定される。自分の問題というよりは、何かしら詩人ルー・シンや可奈グリーンの問題として描き出されているところがある。果たしてこれでいいのかと違和感が残る。
 戦争批判は日本人一般の生活の批判からは出てきてはいない。外部からの、中国系マレーシア人ルー・シン、沖縄人・可奈グリーンの批判という面をかぶって表示される。
 これは正当か?
 アフガンやイラクへの戦争は米政府が起こし、日本政府が従ったものであり、だから、日本人の生活の中には戦争を起こす要因はなく、外から持ち込まれるとのとらえ方が前提なっているように見える。したがって、戦争反対の欲求は、現代日本社会の批判としては立ち上がってきていない。そのため、批判はあたかも空中をさまよっているかのようになっている。批判の基盤が明確でないのだ。あたかも「はちどり」のように空中をさまよっている。確かにこのような認識は、多くの日本の人々がもつものだろう。問題は、脚本家はその認識に対して無批判であることだ。これが問題点の第一

 劇の終わり近くで、軍需会社による航空機の欠陥隠蔽に加担するサンノゼ支店のやり方は、「勝手な営業活動」として日本本社が咎め、支店長・浦賀支店長や先輩社員・日高の「独走」は止められて、晴彦の個人的奮闘は報いられる。この設定は安易だと思う。脚本の欠点である。本社は戦争反対、軍需産業への加担批判から支店長らを止めるのではない。たまたま航空機の欠陥が明らかになったので、それを隠してまで商売を進めることの損得を勘定して止めたのだ。  あくまで偶然なのだ。脚本家が頭のなかで作り出した偶然である。脚本家にこんなことをする権利はない。航空機に欠陥がない場合は、本社はどうしたのだろうか?本社による「正常な経済活動」が果たして歯止めになるのか?これらはあいまいにして劇は終わる。
 もちろん、批判していく人々の関係はどのような形をとるか、そのプランは簡単には出てこないことをわたしとて知っているつもりだ。あえて言うならば、晴彦のような個人的告発は押しつぶされるだろうし、何度も繰り返されるだろう、それを重ねるなかでどのような人々の関係が批判として成立していくか、探求することは、脚本家の仕事の一つでもあろうと思うのだ。必ずしも解決を追加する義務は脚本家にあるわけではない。にもかかわらず、「本社の介入」による無理なハッピーエンドにまとめあげたことで作品は、一挙に「軽く」、「悪く」なってしまった。これが問題の第二

 劇中で、「戦後六〇年間、平和が保たれた理由をなぜか」問いただす。それになんと答えたか?  即座に「日本に経済成長させて、軍備を買い続けさせるため」と詩人ルー・シンに答えさせ、陽子に同意させた。これは正しくないと思う。多くの不十分点があったとしても、一九四五年の敗戦、天皇制ファシズム打倒以後、世界と日本の人々の戦争反対、平和を希求する奮闘が平和を保ってきた第一の要因であろう。しかし脚本家は上記のような説明をあて、人々の闘いの歴史に触れないから、評価していないように見える。このような歴史認識は正しいものではない。歴史は陰謀で動くものではない。
 最後の場面で、支店長・浦賀の脅しにもかかわらず、反戦パレードへの参加を表明する陽子を描く。だから、全く評価していないわけではないだろうが、「個人の叛乱」に重点はあるようだ。人々が、平和を築き格闘してきたことを思い至らない者がどうしてパレードへの参加を思い至り、訴えることができるか。「日本に経済成長させて、軍備を買い続けさせてきたこと」が平和の要因と納得した陽子なら、「さらに経済発展させて軍備を買い続けよう」と思うのではないのか?  こんなところは、形象の造形における破綻、脚本家の恣意により勝手にこさえている矛盾が現れている。そしてこのことは、脚本家の悲観的な、浅薄な世界観を表しているようにさえ思う。
 晴彦は個人的に告発した。確かに告発はありうる。告発する人物を設定することに問題はない。こういう人物は貴重であることも確かだ。しかし、実際には、告発した人物は押しつぶされ排除されるだろう。あるいはこのような人物は何度も現れるとしても、その都度押しつぶされ消されるだろう。それが現実というものだ。しかし、脚本家は「個人的な叛乱」に意義を見出している。それが功を奏し効果があるように設定した。これは現実を反映していないと思う。個人的に解決できるかのような幻想を、脚本家は描いた。厳しく言えば、現実の社会がどのようであるか、しっかりとした観察が足りないのであろうと思う。批判はどのようなところに、どのように成立するか、考慮が足りないことの結果だと思う。これが問題の第三

4) 全体として
 さて、厳しすぎるくらい問題点を指摘したが、しかしこの作品が実に刺戟的で意欲的なものであることには違いない。わたしたちの置かれている現代日本と世界の現実、そのなかで戦争を告発し反対していくわれわれの問題点、困難さや悩みを描き出し、考えさせるからだ。劇中に登場する人物と共に、わたしたちは自身の生活のなかで議論を重ね行動していかなくてはならないことを確かに教えてくれているところなどは、やはり貴重だと思うのだ。(文責:児玉 繁信) 


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忘れぬうちに――『人らしく生きよう』のなかの焼肉ソング [映画・演劇の感想]

忘れぬうちに
――『人らしく生きよう』(製作者:松原明さん、佐々木有美さん)のなかの焼肉ソング――

 先日、『日の丸不起立』試写会で松原明さん、佐々木有美さんの顔を見たときに、思い出したことがある。忘れぬうちに書きとめておく。最近すぐ忘れる、そしてまれに思い出す。
 二年ほど前の上映会後の懇親会で佐々木さんが、『人らしく生きよう』(だったと思う、違うかもしれない。)のなかの一つのシーンについて語ったことがある。
 北海道のある国労組合員(名前を忘れた)が楽しそうに焼肉屋のコマーシャルソングを歌うシーンのことだ。この焼肉屋は北海道では有名らしくそのコマーシャルソングもみんな知っているらしい。この国労組合員は実に楽しそうに、あるいは嬉しそうに歌うのだ。
 
 佐々木さんが語ったのは、「このシーンをカットすべきだという批評、感想が寄せられてそうかなと迷ったけど、実際の姿なんだからカットしないでそのままでいいと思う」ということだった。

 「ああそうか、カットしたほうがいいという意見が寄せられたのだな、製作者は律儀に気にするのだな」と、その時思った。
 カットすべきだと批評した人は、「国労組合員が自分の感情を表現するのに、焼肉チェーンのコマーシャルソングでそれにあてるというのは、あまりに俗っぽいじゃないか、あるいは自前の文化がないではないか」と思ったのだな。「そうだ、確かにそんなふうに思うのは自然だ。でもカットしてすむわけではないよなあ」

 そのときはそれだけで終わった。ただ、国労組合員のあの嬉しそうな表情はどうしてだろう、幸福そうな表情をしていたなあ、どうしてだろうなあ、とずうっと引っかかっていた。

 その理由はなんだろう。どうしてだろうか。
 いろいろ考えてみるけれどよくわからない。映画はきちんと表現していなかったのではなかったか、と思う。そして次のように想像するに至った。あの国労組合員にとっては、家族と一緒に焼肉屋に来ることが、生活の現状からして具体的に見える幸せの姿なのではないか、育ち盛りの子どもたちはたまにしか来ることができないからたぶん嬉しそうな表情をするのではないか、それを見て幸福になるのではないか。そのような気持ちがコマーシャルソングを歌うときに表情に現れたのではないか?
 これはわたしの想像、ちがうかもしれない。

 結論。
 あのシーンはカットするかどうかが問題ではない。むしろ国労組合員の嬉しそうな、幸福そうな表情の理由をきちんと描き出していないところ、描写が足らないところに問題がある。

 さて、ずいぶん前のことなので、わたしの記憶が変形し間違っているかもしれない。その場合は平にご容赦を。


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海南友子監督の『苦い涙の大地から』 [映画・演劇の感想]

海南友子監督の『苦い涙の大地から』と『マルディエム彼女の人生に起きたこと』と比べて

 二、三年前、海南友子監督のインドネシアの元「従軍慰安婦」マルディエムさんを描いたドキュメンタリー映画『マルディエム彼女の人生に起きたこと』(海南友子監督)を観たことがある。元「慰安婦」マルディエムさんは、現在もなお生きていて自身の声で日本政府を告発していた。
 マルディエムさんにぴったりくっついてまわり、彼女や他の元「慰安婦」たちの現在の日常生活を、映画は描きだし、マルディエムさんがわれわれと少しもちがわない普通の人であることを教えていた。あれはわれわれの祖母の姿ではないか。それはこの映画はいいところだと思ったのだ。

 ただ、マルディエムさんの行動や発言を丁寧に重ね、マルディエムさんをスケッチして見せる手法、すべてをマルディエムの行動や発言による場面で重ねていくスタイル、これが気になった。悪く言えば、監督は常にマルディエムさんの後ろに隠れ、前に出てこようとは決してしない。
 こういう手法はなんというのだろうか。実証主義的描写といえばいいだろうか。
 監督は「中立」の位置いなければならず、「事実」だけを重ねようとする姿がうかがえる。自身の見解は述べない。自分で禁止しているかのようだ。だから、監督自身が全体を把握し再構成して提示する志向をより少なくしか持たない。
 ある種NHKドキュメンタリーの持つ共通する特徴だし、かつ欠陥だ。

 この実証主義的描写についてだけいうと、『苦い大地の涙から』ではほとんど解消されている。良い方向に変わっている。
 『苦い大地の涙から』は、旧日本軍が遺棄した毒ガスを最近になって掘り出し被害を受けた現代中国の人びとを描く。日本政府の責任を追及し補償を求める被害者の娘の生活と行動を描く。毒ガスはなお現代中国の人びとに被害をもたらしている事実、侵略の歴史と今日発生した被害の責任から逃れようとしている日本政府の姿を描き出す。
 過去だけではなく現代の問題としてとらえる監督の考えがあり、その考えに従って映画は構成されているかのように見える。ここにあるのは、映画『マルディエム彼女の人生に起きたこと』の手法からの大きな変化である。この監督が実証主義的描写を完全に脱したかどうかは不明だが、『苦い大地の涙から』は明らかに監督の認識とそれに基づく主張によって再構成され表現されている。監督は被害者やその家族の後ろに決して隠れてはいない。
 この変化が確かに認められる。無論それは歓迎すべき変化だ。

 わたしは二つの映画の優劣を言っているのではない。それぞれのテーマは異なり、それぞれが、共によい面を持つドキュメンタリーだ。ただ手法の点で、表現スタイルの点でのこの監督が経た変化、進化が見えたとわたしには思えるのだ。それは歓迎すべき変化だ。(文責:児玉繁信)


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「蟻の兵隊」から、付け足し [映画・演劇の感想]

「蟻の兵隊」から、付け足し

 映画「蟻の兵隊」のなかで、奥村和一が、当時(当時がいつかわからない、敗戦直前かあるいは敗戦後か)部隊の兵士のうち朝鮮人兵士が、解放区に向けて脱走したと語ったと記憶する。正確でないかも知れない。

 朝鮮人兵士の解放区への脱走から、金史良の『駑馬万里』(一九四七年十月)を思い出し、取り出してみた。金史良が北京飯店から解放区を目指したのは、一九四五年三月。順徳から日本軍の封鎖線と遊撃地区とを突破し、朝鮮義勇軍の本拠である華北・太行山脈へと赴き、解放地区で『駑馬万里』を書いた。
 金史良は『駑馬万里』序文に次のように書いている。「・・・特別配給とかいうほんのわずかのくるみ油の燈火のもとで、・・・夜の更けゆくのも忘れて夢中でしたためた、・・・日本軍と閻錫山の軍隊の潜伏する娘子関の険しい山々を前にして、渡河しながらこの記録と日記、手帳などを背嚢の底から取りだし、懐中にしっかりしまいこんだ・・・・」

 軍閥・閻錫山の本拠地は太原であり、奥村の駐屯していた寧武は更に太原の北方である。

 「娘子関」がどこかわからず明確でないが、地理的に近いのではないかと思われる。
 それこそ「余不備」(あとはよろしく)


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二つの表情――映画「蟻の兵隊」評―― [映画・演劇の感想]

二つの表情
   ――映画「蟻の兵隊」評――
映画のチラシから

 北支那派遣軍第一軍(五万九千人)の司令官、澄田中将、今村高級参謀らが策謀し、日本軍を山西省軍閥・閻錫山に共産党軍との戦闘に使うことを申出、そのことで澄田ら日本軍高官の安全の保障と日本への帰国を取引した。そのため、奥村らはポツダム宣言に違反し、一九四九年四月二四日、人民解放軍に投降するまで戦い続けるのである。いわば、彼らは売り渡された兵隊なのだ。日本政府は現在に至るまで、奥村らを逃亡兵としての扱いを変えていない。
映画「蟻の兵隊」は、売られた兵隊・奥村和一が、現在もなお日本軍の卑劣さを告発し、その過程で自分たちの侵略行為も自己批判していく姿を追う。

1)二つの表情 
 あれは二〇〇五年の八月十五日の映像だろう、靖国神社に多くの人々が集まっていて、そのなかの一グループを前に小野田寛郎が講演している。「自分は靖国神社に入れなかったいわば落第生」と「冗談」をいい、ニコニコ笑いながら聴衆に話している。奥村和一は黙って聞いている。講演が終わり帰り際、奥村が小野田をつかまえ話しかける。「小野田さん、侵略戦争の美化ですか!」。小野田の表情が般若の表情に一瞬にして変わる。「侵略戦争ではない。開戦の詔勅にも書かれている。」と怒鳴る。小野田の表情の変化を、映画は見事に捉えた。

 奥村は羊泉村に日本軍に慰安婦にされた劉面煥さんを訪ねる。劉面煥さんの受けた被害を黙って聞く奥村。劉面煥さんが奥村に言う。「少なくとも今のあなたは強暴な日本兵には見えない。」
 奥村さんが奥さんに、新兵教育で中国人を刺殺した自身の行為を話すことができないと監督が紹介する。すると劉面煥さんが奥村に、「奥さんに話してあげなさいよ」と語りかける。これを黙って聞く奥村の表情がいい。下から劉面煥さんを眺め見る。安心したような、無防備の表情である。映画はこの時の表情を見事に捉えている。奥村によれば、仏さんに見えたという。

 この捉えた二つの表情だけで、この映画は大きな仕事をしたと言える。

2)いまだに闘いつづける奥村
 
 奥村和一は八〇歳を超えた今も闘っている。自分のなかの日本軍兵士と闘って自身を変えようとしている。

 新兵教育の時に刺殺した中国人の遺族と会う。奥村は自身が刺殺した中国人を農民だと長い間思っていたが、日本軍が管理する炭坑の中国人警備兵だったと知らされる。中国人警備兵は、日本軍と銃撃戦になったあと、降伏し逃げなかったので日本軍につかまり、新兵の刺殺訓練の的にされた。
奥村はなぜ逃げなかったのか、激しく非難する。「逃げておれば、俺は刺殺しないで済んだのに」との気持ちから、非難の言葉が強くなる。自分の責任が少し軽くなるように感じたのだ。遺族を激しく追及する姿を映画は捉える。奥村のなかに潜む日本軍兵士が顔を出した瞬間だ。
 そして、宿に帰って監督に指摘され、兵士に戻っていた自分にやっと気づく。自分のなかに引きずっている日本軍兵士と闘って自身を懸命に変えようとする奥村を描き出す。

渋谷・イメージフォーラムで上映中。


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格差からの脱出――NHKスペシャル [映画・演劇の感想]

格差からの脱出――NHKスペシャル

8月4日、NHKスペシャルで南米の新しい政治的動きを報道した。

1)ブラジルの実験
ブラジル政府がすすめる社会変革を報じていて興味深く見た。
そこには新自由主義、グローバリゼイションに対抗する新しい試みがあったからである。

ブラジル政府は、バイオ燃料エタノール生産を社会全体が取り組み、格差から脱出を試みている。

さとうきびを生産し、収穫したさとうきびを農園の工場でエタノール燃料に精製する。さとうきびは収穫後早く精製しなければならないそうで、工場は農園の中心に建設される。エタノールはガソリンの代替として国内で使用し、海外へも輸出する。しぼりかすは工場で燃やして発電の燃料にする。農場で働く農民も工場で働く労働者・事務員も同じ会社の社員として働く。農園と工場を単位とする村ができ、そこには学校なども建設される。すでに300万ヘクタール(東京との14倍)が開発され、100万人の雇用が創出されたという。

ブラジル政府は、ガソリンに20%以上のエタノールを混ぜることを義務付けた。エタノールで走る「フレックス車」が欧州自動車メーカーを中心に生産され、どのような混合比でも走るという。エタノールはガソリン価格の50%で生産できる。ブラジル以外にもエタノール生産を検討しており、さとうきび、とうもろこし、甜菜などでエタノール化されているが、さとうきびがもっとも生産効率がいい。

このエタノール生産のための社会変革は、2003年1月、労働者党ルーラ大統領が政権についてから、格差からの脱出政策「アグリエネルギー計画」の一つとして実施され、公平な分配,地球環境の保護をうたっている。多くの農民が南東部サンパウロ州に移住した。ブラジルのさとうきび生産は急増し、今では世界の三分の一、4億トンを生産している。

ブラジル北東部の貧しい農民から南東部への移住者を募り、さとうきび生産に従事させる。北東部は水が少なく農業生産性が低い、農民は生きていけない。特に新自由主義のもとで農産物の輸入自由化が行われ、農民の生産物は市場で売れず収入は激減した。そこへ旱魃である。北東部農民の多くが都市へ流入しスラムを形成し、麻薬や犯罪の温床になった。新自由主義は、ブラジル社会に大量の下層人口を作りだし、ブラジル社会を混乱させ、破壊した。ブラジルは1980年代以降、停滞の30年間を過ごした。グローバリゼイション、新自由主義は何ら豊かな未来を約束しなかった。ブラジル社会は、「停滞の30年間」によって、自身の体験によって、新自由主義が役に立たないことを証明した。ブラジル人民は身を持って新自由主義の本当の姿を思い知らされた。

IMFや世界銀行の学者が、新自由主義によって豊かな未来が約束されると宣伝して回ったことは、すべて嘘っぱちであったことを、大きな犠牲を払って学んだのである。この授業料が少々高かった。

ブラジルの試みは、新自由主義にどのように対抗していくのかという一つのモデルを提示している。

南米では新自由主義が国内の荒廃をもたらした。これまでの「文明」を破壊した。すでに南米十二カ国のうち五カ国は左翼政権に変わった。そのことは新自由主義に対する人々の批判が如何に強いかを示している。

2)ブラジル社会の実験が持つ意味

ブラジル社会の実験の第一の特徴は、ブラジル国家が主導権を取って、公平な分配,格差なき社会を目指していることである。グローバリゼイションや新自由主義、多国籍企業に対抗するには、人々の支持を得た代表が国家の代表となり、「国家の力」で対処する以外にないことを再度確認した格好である。それ以外に対抗する力はやはりない。
第二に、決して資本の価値法則に逆らって政策を立てているのではない。エタノール生産・販売は、ガソリンなどの国際価格よりも低い価格で生産・供給し、国際市場に受け入れられることを前提にしている。あくまで資本主義の枠内での改革を「苦労して」目指している。
第三に、農業生産と工業生産を結びつけて、あるいは「公平な分配」と「環境保護」までも視野に入れて掲げていることである。(正確に言えば「より公平な」と言うべきであろう。)
利潤を略奪的に奪っていまう新自由主義が、決してできなかったこと、やろうとしなかったことを堂々と実行している。

しかし、このようなことができるのはブラジルが広大の土地を持っているからである。ベネズエラにしても巨大な油田を国家の手に収め、多国籍企業の勝手な収奪を許していないのだが、それにしても油田があるからである。他の途上国はブラジルやベネズエラほどの条件を持ってはいない。
したがって、ブラジルやベネズエラの実験は、必ずしもそのまま他の諸国に適用できるわけではない。ただ、新しい希望が手探りで育ちつつあるのも確かだ。

NHKの報道は、エタノール燃料生産の技術的な性格から説明する傾向にあった。この社会的実験には、貧困から抜け出そうというはるかに大きな構想、期待がある。
この社会的実験は、アメリカの言いなりになる政府、新自由主義の政府、これまでの軍事独裁の政府では決してできないものである。

「現代世界とその秩序に対する批判」は、国家権力を奪取して国家の力で新自由主義、多国籍企業、先進国政府に対抗し、自国の人々の生活破壊から守り、雇用を創出し、教育をおこなう・・・という道筋を確かに歩もうとしている。


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「ヒバクシャHIBAKUSHA 世界の終わりに」上映会 [映画・演劇の感想]

「ヒバクシャHIBAKUSHA 世界の終わりに」上映会 
8月6日(日)、三鷹市市民協働センターで、鎌仲ひとみ監督「ヒバクシャHIBAKUSHA 世界の終わりに」上映があった。「三鷹プロジェクト」で丸木美術館「原爆の図」パネル展示と合わせて、この上映会は行われた。

劣化ウラン弾により癌となり、死んでいくイラクの少女。薬がないため医師たちは治療しようがない。長い間話し合って結局、薬の代替にカルシウムを加えた生理食塩水を点滴する。次の画面では誰もいなくなったベッドが映され、少女の死が描かれる。簡単にそして確実に死が訪れる。

白血病の息子を抱え治療に奔走するイラク人家族。水道管が破れ汚れた水道管からの水汲み。その家族のシートを引いた土間での食事風景。土間に転がっている鍋。それらを描き出す。
劣化ウランも含まれている砂埃のなかでサッカーに興じる子供たち。砂埃の中には劣化ウラン弾による様々な放射性物質が含まれ、吸い込んだ者は長期にわたり体内被曝する。細胞分裂を頻繁に繰り返す幼い子どもほど癌にかかりやすい。

続けて、アメリカ・ハンフォードにある核処理施設の風下に住む農民の被害を描く。ほとんどの農民が何らかの癌をわずらい、多くの人が亡くなっている。農民のトムがアメリカ政府に被害を訴えるが、政府は訴えを退ける。

イラクにおける劣化ウラン弾被害の暴露やアメリカ・ハンフォード住民の被害を日常的な言葉と風景で淡々と追っている。イラクの少女もハンフォードの住民も普通の人たちであり、われわれと同じように生活している。そのことがよくわかる。

ブッシュ大統領やTVに出てくるアメリカ知識人たちは、自分に都合のよい理屈を並べて喋り散らし、熱狂するから、アメリカ人とはそんな人たちばかりかと思っていたが、われわれと同じような生活をおくり、悩みもし、またやさしい気持ちを持った人たちもいることをこの映画に発見し、安心するのだ。もちろん彼らは政治的には多数ではない。

映画は「ヒバクシャ」を見つめることは人間的にものを考えることだと教える。


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映画「三池---終わらない炭鉱の物語」を観る [映画・演劇の感想]

映画「三池---終わらない炭鉱の物語」 熊谷博子監督

 魅力的な映像を多く含んだ映画である
チラシから

 もともと小さな館での上映だったが、この種の映画にしては珍しく観客が「予想外に」多かったのでアンコール上映となった。私が観たときも、平日の昼間であるにもかかわらず満員であった。60歳前後の年配の観客が多かったように思う。自分たちの生きた時代と自分を懐かみ慈しむという風だったように感じた。ただ、若い世代も数名いた。彼らはどのように観たのであろうか?

 最初のほうの三池の歴史を説明する画面は、まるで教育映画であるかのように映像に命と動きが欠けている。これを入れなければならないと判断した監督の意図は何か? と疑問に思いながら観終えたところ、最後の字幕に、企画:大牟田市とあって、スポンサーの要望をたくみに取り入れ不満の出ないように処理したことからくると、理解した。「巧み」に要望を満足させたかもしれないが、しかしやはり映画をそのような構成としたのは、良くない。
 こういう映画をつくるには財政的な苦労が大きいのだろうとは思う。スポンサーの要求にも応え、三池鉱山の歴史も描き、三池鉱山創業者・団琢磨も登場させなどしているところは、監督としてはそれぞれの要望を「うまくまとめ上げた」と言えるし、作者は何を描き出したかったのか焦点が定まっていないとも言えよう。

 企画が大牟田市、大牟田市石炭産業科学館だそうで、三池炭鉱の歴史、大牟田市の歴史を描く内容も混じっている。三池争議も描き、炭鉱の歴史も描き、それから熊谷監督自身の「思い入れ?」のようなものも含まれていて、それらがすべて「混じっている」。

 そうではあるが、三池炭鉱争議の当事者であった三井鉱山の労務担当者、新労の役員・労働者、三池炭鉱労働組合がそれぞれの立場から三池争議の歴史を「語りついで」、当時の写真や映像が織り込まれるところなどは、俄然映像が生きて動いているかのように活気を得て、それぞれの写真、証言がつながり、迫ってくる。間違いなくこれが映画の生命である。
証言を並べて三池争議やCO中毒患者と家族の苦闘をドラマティックに描き出している点は、優れたところだ。
 証言者の一人である松尾蕙虹さんなどは、わずか映画にある表情を観て話を聞いただけで、魅力的な人たちであることがわかる。こういう人たちのようにありたいと思ってしまう。

 大牟田の青年たちが法被を着て鼻筋を白く塗って輪になって踊る映像が最後近くにある。若い二人の女性が、「踊りで大牟田を明るくするのだ」と語っている。しかし、力がない。存在感がない。法被を着て国籍不明な踊りで明るくなると思っているところが残念だ。人が何を楽しみ苦しむのか、この若者は理解していない。証言者たちに比べて各段に影が薄い。
 チラシには熊谷博子監督は「・・・これは過去を描いた作品ではありません。・・・未来へ向けて勇気ある一歩を踏み出す、大きな力がみなぎります。」と書いている。必ずしもそのことを頭から否定はしないが、残念なことに大きな力はみなぎっていないし、勇気ある一歩は必ずしも明確ではなくて、各人各様に受け取るように作られている。未来へ向け大きな力がみなぎるようには残念ながらつくられていない。

 廃坑の前にたたずみ監督・熊谷博子が本人は深く感動しているらしく感慨を述べる。本人が何かしら感傷に浸りたがっていることはわかるが、何を思い伝えたいのか中身が乏しい。受け取れないわけではないが、それまでの映像に比べてずいぶん水で薄められているものしか、表現されていない。「映像は一瞬にして何百ページの論文より多くのことを語る。」と言われるが、このシーンはその逆だ。監督が目立ってどうしようというのか。たくさん喋っても中身を薄め、冗長にしている。こういうところは当然のことカットしなければならない。

 いろんなものが混じっているけれども、三池に生きた人たちの群像をよくとらえた、いいところをたくさんもつ映画だ。(文責:児玉繁信) 
チラシから


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映画「最後の庭の息子たち」を観る [映画・演劇の感想]

映画「最後の庭の息子たち」
ホルへ・サンヒネス監督、ボリビア・ウカマウ集団、2003製作

現代ボリビア社会の都会の青年が直面している現実を描いた2003年の作品。7月23日上映会があり観た。

 「グローバリズムの浸透で、いままでのものとは形を変えた矛盾に取り囲まれながら、青年たちは何をなすべきかを掴めぬままに、ある者はあせり、またある者は事なかれ主義に陥っている。かけがえのない、この土地に住む青年たちに、私たちは、この映画を通して、メッセージを送りたかった」ホルヘ・サンヒネス監督。(チラシから)
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 ボリビアの都市(ラパスか?)に住むフェルナンドは友人の3人をさそい、汚職議員宅から金を盗む。彼らはみな無職の青年たち。運よく成功するが逃げるところがなく、先住民出身のロベルトを頼る。ロベルトを含む5人の青年は、ロベルトの故郷を目指して山道を延々と歩く。貧民ほど都市の外延の高い急な斜面に貼りつくように家々を連ねる。映画は5人が山道を歩く場面を延々と描写する。フェルナンドは義賊気取りで盗んだ金を先住民に分けるつもりであったが、強盗を働いた仲間の二人は自分たちの取り分を要求し対立する。先住民集落では盗んだ金を受け取るかどうか、村人全員が長い時間をかけて議論し、結局受け取らないと決定する。青年たちは金を持って街へ帰り、ちょっとしたスキに、いわばフェルナンドらと同類のコソ泥に盗まれてしまう。フェルナンドが家に帰ると家族は誰もいない。留守にしていた間に銀行が家を差し押さえ、家族は追い出されてしまった。妹と再開するフェルナンド。それまで職探ししていた妹が、今は売春で家族を支えていることを告白し、兄の説く主張が観念的で何の役にも立たないと非難して、画面が終わる。

 ボリビアは白人エリート層、メスティゾ、先住民とはっきりと分離した階級社会。少数の白人エリート層が国家機構を通じてアメリカ政府や多国籍企業と関係をもち、支配する。映画では、汚職議員として描き出されている。民族が階層、階級わけと重なる。1960年代から90年代にかけての反共軍事政権は、1991年のソ連解体以降、解消されたが、開発独裁による債務は膨大な額に達し、軍事政権から「民主化」されたものの、グローバリゼイションという名の現代的資本主義化が進み、債務による支配に取り替わった。ボリビアは膨大な債務に苦しみ、実質、北の巨人アメリカによって支配されている。多国籍企業は利益を生み出す限りでしか産業を成立させない自由主義原則を強要し、基幹産業であったこれまでの鉱山経営を破壊し、社会的影響力を持っていた労働組合を解体した。社会全体に失業が蔓延し、他方医療や福祉、教育、公共サービスなどは削られた。従来の労働組合や民主団体は解体され、人々は対抗する政治的力を失ってしまった。その結果、人々は分断され、悲惨な生活は放置されたままになり、青年はあせるが何をなすべきかつかめない。
 「民主化」されたボリビア、グローバリゼイションと市場原理が貫徹するボリビア社会は、何ら未来を約束することができない。

 この映画は、グローバリズムが現代ボリビア社会に何を生み出しているかを描いている。現代的問題をそのまま取り扱っているところが映画として優れた点だ。日本などの先進国側では、グローバリゼイションが新しい未来社会像であると日々宣伝されるが、決してそうでないことの鮮烈な反論を、厳しくかつある面ではユーモラスな描写で提示する。

 フェルデナンドの祖父は元軍人で、勲章は誇りであるが、家計が苦しいことを考え勲章を金に換えようと決意したらしい。しかしわずか30ペソと言われ、これまでに全人生を否定された気持ちになり、老人は公園で大粒の涙を流して泣くのだ。
 都市は失業者に溢れており、映画は4人とは別の、強盗して金を稼ぐ青年たちの姿も重ねて描く。彼らはつかまってしまう。彼らも「同類なのだ」と作者は主張する。何をなすべきかつかめない青年たちのいくつかの姿を並べて観客に提示する。

 4人の青年がたたどりついた先住民の集落はまったく異質な社会だった。フェルデナンドたちが持ってきた金を受け取るかどうかを、共同体全員が議論する。汚れた金でも共同体を豊かにするため使おうという者がいる。盗んだ金は受け取れぬという者がいる。果てしなき議論の末、二度盗まれた金を受け取らないことを共同体は決定する。
 金を受け取らないと決定したことに驚くとともに、共同体の直接民主主義のやり方にフェルナンドは感心する、そしてそれをロベルトに語る。

 先住民の生活は電気も水道もない、資本主義的に文明化された社会から切り離されて存在している。共同体の直接民主主義は平等に貧しい関係の上に存立している。映画は、現代に対する一つの批判として先住民社会、その社会関係、あるいはアソソエイションを提示する。
 他方、金の分配をめぐって対立したように、わずか4人のフェルデナンドの仲間うちさえ共同した行動をとることができず、直接民主主義のかけらさえ持っていないことが対比的に、あるいは批判的に描写される。
 共同体の直接民主主義は平等に貧しい関係の上に存立しているが、ボリビア社会のなかに根づいているわけではない。「先住民主義」と呼んだところで、それだけでひろがるわけではない。ボリビア社会のどのような関係のなかに、どのように根づいていくのだろうか、と疑問的に提示しているだけだ。ウカマウは解決を示してはいないし、簡単に示すことができるものでもない。

 フェルナンドは現代ラテンアメリカのネフリュードフ(『処女地』)であるかのように描かれている。ウカマウ集団のフェルナンドら青年に対する眼は優しい。

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 話はずいぶんとちがうのだが、戦後日本の民主主義が現在、徐々にかつ確実に削り取られつつある。この映画をみて、われわれの戦後民主主義に直接民主主義の要素が著しく欠けてきたこと、日本人ひとりひとりが自身とまわりの人々との関係のなかで民主主義を自分たちの行動のスタイルとして身につけることが著しく欠けていたこと、それが原因の一つであると痛感している。
 映画とは内容はずいぶんちがうとしても、現代日本において、対抗していく人々の関係をどのようにつくっていったらいいのだろうか、はやりの言葉で言えば、批判的アソシエイションをどのように形成していったらいいのだろうか、今日の右傾化のなかであらためて思うのだ。(文責:児玉 繁信)


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